「良(よ)からんは不思議、悪(わる)からんは一定(いちじょう)と思え」

 私の座右の銘の一つです。

 良いことが起こるのは不思議で、悪いことが起こることの方が、当たり前であり、世の常であることを説いています。

 何か新しいことに挑戦する場合、まず失敗します。最初から成功できることは、ほとんどないのです。できたとしても、たまたまです。なぜなら、新しいことをする場合、予想や計画を立てますが、あくまでも、「もしこうだとしたら、こうなる」という仮説を基に、予想や計画が作られるからです。

 ご存知の通り、現実世界では、仮説通りのことは、まずないのです。進める中で、前提としていた条件や規則や流行が急に変わったり、当てにしていた、支援者がいなくなったり等々。予想外の連続です。

 従って、何か新しいことをするということは、問題を起こす原因を作っているとも言えます。

 大事なことは、人間は問題を真正面から受け止め、解決しようとして、努力するから成長できるのです。逆に、問題がなければ無理して努力しないので、成長できないと言っても過言でないと思います。

 つまり、人間が正しく生きるためには問題が必要なのです。そして、問題が多ければ多いほど、また、それらを乗り越え解決すればするほど、人間としてどんどん成長し伸びていきます。力もついていきます。問題を回避する人は、伸びる機会を自ら放棄しているのです。もったいないことです。

 元々凡人であったけれども、偉業を成し遂げた人々は、例外なく、問題を成長の糧としてきています。また夢や目標を実現するための大事な過程として、真剣に受け止め、全力で乗り越えてきました。

「良かったじゃない、問題が起きて! これで大いに悩んで成長できるし、問題を乗り越えたら、境涯が開けるからね」

 これは、私の母が、問題が出てきて真剣に悩んでいる私によく言っていた言葉です。最初に言われた時は、厭味にしか聞こえませんでした。

「人がこんなに悩み苦しんでいるのに、なんで『良かったじゃない、問題が起きて!』なの?」

「だから、これでチャランプランにしてきたあなたが、ようやく真剣に向き合い、やらざるをえなくなったでしょう! 良いことじゃない。何度お母さんが、真剣に対応しなさいって言ってもあなたなかなか聞かないじゃない。これで頑張れるようになれるなら、こんなに良いことないわよ!」

 確かに、母に何事も手を抜かず誠実にコツコツ頑張らなければならないことを、言われ続けていました。言われれば言われるほど、反発の心も手伝ってか、良くないとは思っていましたが、やる気がおきなかったのです。

 不思議なもので、問題というものは、逃げたり、中途半端な対応をしたりしたら、いつまで経っても解決されないのです。そのままにしておいて、解決される問題などまずないですので、当然と言えば当然なのですが。

 でも問題が起こって当事者になってみると、ついつい逃げたくなったり、辛くて真っ向から対応できなくなってしまうものです。どうしても、その場逃れの対応をして、問題を先送りしてしまうのです。

 それは、真剣に問題解決に当たり始めると、生きも抜けないほど全力で頑張らなければならないことを知っているからなのでしょう。特に、怒られたり、非難・中傷されたり、罵倒されることが辛く嫌なのだと思います。

 結局、問題解決のカギは外にあるのではなく、自分の弱い心です。つまり、その心との戦いに勝つしか、解決策はないのです。

 母の「良かったじゃない、問題が起きて!」とは、置き換えて言うと「良かったじゃない、ようやくあなたの弱い自分に挑戦するチャンスがきて!」とでもなるのでしょう。

 その母ももう他界していません。元々私が米国留学に行く際、「男になって来い!」と気合いをかけてくるような、正に武士道的に生きていた人でした。

彼女のお陰で、今では問題が起こる度に「よっしゃー 来た来た。また弱き自己と戦うぞ~」とついつい癖で力が入ってしまいます。逆に問題が起こるのを楽しみにしている自分が、そこにはいるのです。