7月に出版される本のプロローグです。まだ、タイトルも内容も確定していませんが、とりあえずご参考になればと思い、紹介します。


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「浜口は、性格はいいけど、本当にバカだよな!」

 学生時代いつも友人達がこんなことを言っていました。大当たりです。私も、自分ぐらいバカな人にめったに会ったことがありませんでした。

「直太は、特技もないし勉強もできないから、義務教育終えたら、丁稚奉公にでも出たほうがいいね。無理して学校行っても、学べないんじゃ、学費もったいないからね」

 母までこんなことを口癖にしていました。

「あーあー、僕は頭が悪くドジで何やるにしてものろいから、一生みんなにバカにされ続けるのかなあ……でもしょうがないよなあ、そうだから……」


 私は高校3年生の夏休みまで、そんななげやりの人生を過ごしていました。

 ところが、担任の英語科の教師が、それを見ていて気の毒に思ったのでしょう。突然、夏休みを利用して、米国で一ヶ月間ホームステイをするよう勧めてくれたのでした。

 とんでもないことです! 私はすぐに断りました。

国語と英語が大嫌いで「超」苦手でしたから、大学も行かずできるだけ頭を使わない、特に英語とは二度とかかわらない仕事をするつもりでした。

なんでそんな私が、米国に行かなければならないのでしょう!

 あんまり抵抗したため、担任の先生が、母に直接電話して言いました。

「これが浜口君の人生にとって、最後の蘇生のチャンスになるでしょう!」

 どんなにバカでも息子は可愛いようです。母は私を何が何でも、そのホームステイに行かせることにしたのです。

母は強しです。結局、彼女に押し切られてしまいました。

「アメリカ行って男になって来い!」

 なんで米国に行ったら男になれるのかわけわからない状態で、渋々渡米したのです。

 

あれから、四半世紀以上も経って、今私は、経営コンサルティング会社を経営し、自ら国際経営コンサルタント兼ビジネス作家として、毎日苦手だった国語と英語を使いながら、生計を立てているのです。これが奇跡と言わずしてなんと言うのでしょう!

 ここまで来るまでには、本当に長~い長~い道のりでした。何度諦めかけたことか。経済苦、家庭・能力・健康等の諸問題。様々な問題や苦難を克服してきました。

 これまでを振り返ってみると、正に不可能を可能にしてきた人生でした。簡単にその人生を紹介します。


1960年7月7日      兵庫県伊丹市生まれ(自衛隊一期生の父の長男として)

1970年6月          突然、心臓に穴が開くが、3ヵ月後に完治(奇跡)。本格的な競泳選手生活開始

1973年3月 台東区立根岸小学校卒業

1973年4月 台東区立忍ヶ丘中学入学

1976年3月 同中学卒業

1976年4月 私立創価高校入学(奇跡)

1978年8月 米国ワシントン州ウエナッチ市の1ヶ月間の短期ホームステイ

1978年10月        「国際経営コンサルタント」業をしている人と知り合い、同業をライフワークにすることを直感的に決意。死ぬ時期を80歳と仮定し、人生プランを作成

1979年12月        私立創価大学に推薦合格(奇跡)

1979年3月 同高校卒業(奇跡)

1979年4月 私立創価大学経営学部経営学科入学と同時に休学し、三菱製鋼

    の工場で重労働を始める

1979年9月          
語学留学のため渡米。全米一学費の安いアラバマ州立ガーズデン短期大学の英語コースに入学

1980年4月 米国から帰国し、創価大学に復学

1982年3月          
ゼミを除き実質2年間(無遅刻・無欠席・無早退)で卒業に必要な全単位取得(奇跡)

1983年3月          
卒業に必要な全単位を取得。ところが、在学期間が4年必要なため卒業まで1年待たなければならないことを知る。卒業式を待たず渡米。姉のいたバージニア州アーリントンに居候。

1983年8月           
財務学部長サミュエル・サピエンサ教授の特別の計らいで、無試験で、ペンシルベニア大学経営大学院(ウォートン・スクール)博士課程に入学許可を得る(奇跡)

1984年3月           創価大学経営学部経営学科卒業

1984年5月           
国際会計・経営コンサルティング会社、KPMG ピート・マーウィック(ニューヨーク本社)にプロフェッショナル・スタッフとして採用(奇跡)

1985年7月        テキサス大学経営大学院(ビジネス・スクール)助手就任(奇跡)。

同大学院修士課程条件付入学(奇跡)

1985年10月         KPMGピート・マーウィック(ダラス事務所)にて、日本企業部コーディネーター兼マネージャーに最短で昇進(奇跡)

1987年9月           
KPMGピート・マーウィック(ダラス事務所)にて、国際部シニア・マネージャーに最短で昇進(奇跡)

1988年8月           
テキサス大学経営大学院修士課程卒業(奇跡)

1988年9月           同大学院博士課程条件付入学(奇跡)

1990年9月        国際会計・経営コンサルティング会社、プライス・ウォーターハウスにヘットハントされ、日本企業部ディレクターに就任(奇跡)

1992年9月           プライス・ウォーターハウスの援助で、テキサス州ダラスに、アメリカ人パートナーと、国際経営コンサルティング会社「東京コンサルティング・インターナショナル」を設立し、最高経営責任者(CEO)に就任。と同時にプライス・ウォーターハウスの顧問に就任

1993年6月           テキサス大学経営大学院博士課程終了

1997年7月           
日本に逆進出し、東京に国際経営・起業コンサルティング会社「株式会社 日本コンサルティング・インターナショナル(現株式会社 ジェイ・シー・アイ)を設立し、代表取締役社長に就任

2002年3月           
日本で最高財務責任者(CFO)のプロモーション本格的に始めるため、書籍「CFO 最高財務責任者」を日経BP企画から出版し、ビジネス作家としてデビュー

2005月6月           4冊目の本「あたりまえだけどなかなかできない仕事のルール」(明日香出版社刊)がベストセラーに。本格的な執筆活動を開始



私をよく知る友人達は、私のことを「日本のフォレスト・ガンプ」と言います。確かに、これだけ能力的に劣っていたのに、「バカの一つ覚え」のように、後先考えずに挑戦し続けたらそう言われても仕方がないと思います。

国語や英語が苦手なのに、米国の経営大学院博士課程で学びながら同大学院で教えたり、米国の大手国際会計・経営コンサルティング会社に採用され、スピード出世させてもらったり、経営コンサルティング会社を筆頭に日米で会社を経営したり、本を書いたりで、バカがやるには、珍しいのかも知れません。

ただ、私は「人間苦手なことでも命懸けでやり続ければ、成果は必ず出る」ということを自らの生き様で証明したかったのです。

ですから、本著を通して、自分が生きてきた人生をお話することで、一人でも多くの人に希望と勇気とやる気を与えられればこれほど嬉しいことはありません。


ちなみに、私が高校3年生の卒業時に立てた人生計画を期間毎に簡単なポイントだけ紹介します。


22~32歳    日本の大学卒業後、大手国際会計・経営コンサルティング会社(米国)で修行する

            ●その間、経営大学院(ビジネス・スクール)でビジネス理論を学び教え、    

            経営管理学修士号(MBA)を取得する   

            ●独立に必要なもの、特に人脈、経験、知識、ノウハウ、資金、知名度を得    

            る

32~42歳 「国際経営コンサルタント」として米国で独立する

国際経営コンサルティング会社を設立し、経営を安定させる

日本にも逆進出する

42~52歳 業界でオンリーワンの存在となる

ベンチャー・コンサルティングでは、NO1になる

仕事の一貫として、ビジネス作家としてデビューする

本を100冊以上出版し、1000万部以上売る

52~80歳   趣味としてのコンサルタント業をしながら、世のため人のために生きる(80歳で殺されることを想定)

人の相談に乗り、激励しまくる

世のため人のため世界平和のために、命を賭けて活動する

本を300冊以上出版し、3000万部以上売る

殺されることを覚悟して信念を貫き通した余生を送る

        

 笑わないで下さいね! 私はこの人生計画を実践することに命を賭けていますので。

 今45歳ですが、一応この人生計画通り実現させてきました。

でも、これからも、実現させていけるかどうかは、わかりません。わかる時は、死ぬ直前だと思っています。

 この人生計画を最後まで実現させるのは、不可能かも知れません。

しかし、私は絶対に諦めません。高校3年生の時からそうやって生きてきましたから。もう後には戻れませんし、生き方は私には変えられません。なぜなら、私のあまりにも偉大で大事な師匠との約束だからです。

 皆さん、見ていて下さいね! 私が本当に日本のフォレスト・ガンプだったかどうかを。