それでも十二時のどんが微かに聞えて、何処となく都の空の彼方で汽笛の響きがする。(本文より)
※十二時は住人
どんはdoom/宿命、運命
都は都会、トカイ/外界
汽笛は笛、ふえ/不壊、永遠。
☆それでもこの国(冥府、地獄)の住人の宿命(運命)のよかんがして、どことなく外界、宇宙の彼方(永遠の日々)を感じる。
(九)には﹅が振られた文字がいくつかある、それをつなげると、
《うづわめくかんてらわめいどん》
う めくか めいど→呻く川、冥土。逆さにすると
《んどいめわらてんかくめわづう》
と わ てんか め づ→永遠天下愛づ
=終りに=
『武蔵野』は死(死生観)
『欺かざるの記』の欺くはdeceive、deceaseは死。『欺かざるの記』は死の否定(未だ死なざる者)の記録
『武蔵野』は武蔵野の自然を高い美意識をもって描写したものであると同時に独歩の生に対する(死の国)を想定。
川で囲まれた武蔵野独特の台地をベースに空想(独歩自身は妄想と称している)した冥府を表現したものではないか。
『武蔵野の俤は今入間郡に残れり」入間郡小手指原久米川は古戦場である。一日にして数戦人の命が葬られたという事実、人は生まれ死ぬという動かしがたい事実、吾(わたくし)とは何か天地の孤客、人類、流星の如き、光り形という独歩の見解は武蔵野という立地条件を媒体に死の国、冥府を夢想していく。
自分は神の国に帰るべき霊魂であり、真善美を信じ、霊魂不死を信じ、神の摂理を信じるものであると明言している。けれど次第に、イエスは神の子という信仰と、思いもよらないばかばかしい仮説であるという二つの考えの差を自問している。
彼は何故神を信じ神に仕えないのか大いなる疑問である。「彼」という「吾」。されど吾(わたくし)は即ち彼である、そういう主旨を記すようになる頃『欺かざるの記』は了っている。
『欺かざるの記』は独歩の問答の語録であり、『武蔵野』は「自分とは何か」を追求した独歩の避けることのできない生命の根源、「わたしはどこから来てどこへ行くのか」という疑問への挑戦ではないか、そう思う。