林の絶え間を国境に連なる秩父の諸嶺が黒く横たわッていて、あたかも地平線上を走ては又た地平線下に没しているようにも見える(本文より)

 

☆墓の絶え間を(現世と冥府の)国境に連なる父母の死霊が黒く横たわっていて、あたかも地平線上を走ては又た地平線下に没しているようにも見える。

 

 さてこれより又た林のほうへ下るべきか。或いは畑の彼方の萱原に身を横絵、強く吹く北風を、積み重ねた枯草で避けながら、南の空をめぐる日の微温き光に顔をさらして畑の横の林が風にざわつき煌き輝くのを眺むべきか。或は又た直ちにかの林へとゆく路をすすむべきか。自分は斯くためらった事が縷々ある。自分は困ったか。否、決して困らない、自分は武蔵野を縦横に通じている路はどれを撰で行っても自分を失望させないことを久しく経験して知ているから。(本文より)

 

☆《さてこれより又た畑のほうへ下るべきか》とあるが(六)に《君は必ず坂を上るだろう。とにかく武蔵野を散歩するのは高い処高い処と撰びたくなるのはなんとかして広い眺望を求むるからで、それでその望は容易に達せられない。見下ろすような眺望は決して出来ない、それは始めからあきらめたほうがいい。》とある、とすれば《さてこれより又た畑のほうへ下るべきか。》は独歩の武蔵野としては矛盾した光景である。

「下る」というのは現姓からの発言、死を意味している。直ちにかのはやしへゆく路を進むべきか。自分は斯くためらった事が縷々ある。というのは「自殺」を暗示しているのではないか。死して自分は「死」を決して恐れたりはしないという決意、無限なる宇宙への信奉、天地を信じ、人間を信じ、神の摂理に従うということだと思う。

 この(四)では野、野、路、に・が振ってある。

 のの(への)路ではないか。「のの」とは月、神。神様への道である。

 のら、のら、にも(。)が振ってあるがこれも(のの)を意味しているのではないか。林を去って(のら)に出た。に(、)が振ってあるB。

 つまり、墓(地球)を離れて宇宙神の元へ向かう道ではないか。