十月二十五日の記に、野を歩み林を訪うと書き、また十一月四日の記には独り風吹く野に立てばと書いてある。そこで自分はツルゲーネフを引く。

 「自分は立ち止った、花束を拾い上げた、そして林を去ッてのらへ出た。(本文より)

 

 独歩の《野を歩み林を訪う》とツルゲーネフの《林を去ッてのらへ出た》は状況は同じ。

 ここで強調される《野》と鼻にだろう。《畑は即ち野である》

 野、no、無、もしくは空の暗示ではないか。

   アァ秋だ!誰だか禿山の向こうを通ると見えて、から車の音が虚空に響きわたッた・・・」

 から、虚空・・・。

 そして武蔵野には決して禿山はない。ときっぱり言い切っているのは妙である。

 『忘れえぬ人々』でみ(知る顔も無ければ見覚えの禿頭もない。武蔵野には決してないという禿山は《太陽》の暗示であり、ここは日の当らない影の世界であるということである。

 

☆其の眼は人界の太陽を観て終に太陽をみざりき(名人十八年十月二十八日)

 

 武蔵野の光景は一面のヘイゲンであり高台の処々が低く窪んでおり、谷底は大概水田だという。

 秩父の諸領が黒く横たわッていて、あたかも地平線上を走ては又た地平線下に没しているようにも見える、と表現を加えている。

これが武蔵野の条件である。

 平原と見える武蔵野の底は水田、彼岸/the ohterside of water

 林は先祖の家なり→墓

 畑すなわち野である

 以上の条件から『武蔵野』は《空無、宇宙》という構図だと思う。(つまり『武蔵野』は現世の景ではない)