『武蔵野』は宇宙的時空における吾(わたくし)の追求…超時空を書いている。

『武蔵野』という作品は現在の武蔵野を書いたのではない。

 

☆凡ての人と共に、忽ち玆より死去るを知るのも。無窮の自然を知るのみ、蜉蝣の命を知るのみ。故に余に在りては東京が武蔵野たると武蔵野が東京たるとを問わざるなり。(『欺かざるの記」明治二十六年九月十四日)

 

 独歩における「今(時間)」「自然~神」「吾(わたくし)とは何かという命題が主眼であり、それは自ずと生きている自分と死んでいった多くの人たち(自分)との対峙の物語である。

 隠されたテーマ、綿密な自然描写でありながらよく見るとオブジェクトが二つ存在していることに気づく。

 この二つは同時には見えないので一元的、受動的な従来の読書法から外れる必要が生じる。(欺かざる)という赤裸々な日記と(武蔵野)という作品の微妙な差異を読み取る作業が必然的に生じてしまう能動性をこそ要求される不思議な読み物であり独歩と読者との哲学的闘争のエリアでもある。

 《四顧し、傾聴し、諦視し、黙想する》 この独歩のアドバイスを念頭に置けば自然に読め解り、面白くなるという具合である。

 究極、独歩の存在論との対峙である。

 

 ちなみに例をあげてみると、六章の文中「不羈奔逸の気が何処からともなく微動している」という文章に・が各振ってある箇所がある。

「ふきほんいつのきがどこともなくうちゅうにびどうしている」

「不帰     の気      宇宙    どうしている」

「不帰の気(精神)宇宙にどうしている」と読める。

『武蔵野』の底に流れるテーマだと思う。