☆一人目・・・人影が黒い点のようになって了って、そのうち磯も山も島全体が霞の彼方に消えて了った。
☆二人目・・・二十四五の逞しげな体躯の黒い輪郭の壮漢(ワカモノ)
☆三人目・・・歳のころ五ツ六ツも越したらしい幅の広い四角な顔の丈の低い肥満た漢子(オトコ)
☆最後に書く加えた亀屋の主人、幅の広い福々しい顔の眦が下がっている、気難しいが正直、年は六十くらいのお爺さん。
黒い点から黒い輪郭、四角な顔、肥満、顔の表情というように次第に一人の人としてのイメージを明確にしている。年令も二十四五、四十を五ツ六ツ超えた歳、六十というように重ねている。
この意味はこの忘れえぬ人々が全て吾(個人)の吾であることを語っている。
物語は吾(わたし)という存在の過去の連鎖を大津弁二郎(アウト/外、弁じるもの、ぼくは東京→talker→霊媒)に語らせたものであるという伏線を感じる。
多摩川(霊川)の二子(二つの個、相似)の渡(私)をわたって少しばかり行くと溝口(自らの口/入り口)という宿場(前世からの領域)がある。という冒頭。
そして最後に書き加えてあったのは「亀屋の主人」であった。「秋山」ではなかった。
つまり二年のうちに忘れえぬ人・・・《忘(ボウ)れえ(霊)ヌ(野)人》→亡霊の人々に加わったのは若い秋山でなくお爺さんである亀屋の主人であった、という話である。
独歩は三百年の後の人のために書くと『欺かざるの記』に表明している。
三百という数字は、もうわたしの存在など霧のように消えているという時間であり、これら作品が理解されなくてもどうということはない、無窮の天に帰るものであるわたしにとって書いたことだけが真実なのだという無(悟り)の境地すら感じるのである。