『花嫁』

 

 どこに『花嫁』らしきものがあるのか不明な作品である。

 部分部分は実際に使用可能なパーツを想起させるが、各種それらのつながりや関連を確認すると意味は打ち消され有用さは霧消する。

 いかにも生産性を促す工程のように見える。しかし、何かが流れる工程らしく見えるが分断され行き先の結末は見えない。

 要するにそれらしい無用の機械は何も生産せず(見掛け)というありさまを提示するだけである。

 

 人間が生きるための必須条件は《生産と消費》にある。その循環が打ち消されている作品(画)には然るべき表情が見えない。

 この作為は、徒労(虚しさ)であり、有用さを否定するものである。

 鑑賞者の肯定を促す部分の(それらしさ)が無意味な関連をもたらすことを悟るとき、人は落胆する。

 望みなしの絶望とはこういうものであるという証言であり、《存在するが否定された存在》であるという告発である。

 

 『花嫁』は一時的な美称であれば、永続性はない。有るが無い美称は宙に浮いているが、確実にある呼称であり掴もうとすれば霧消する確実性の薄い領域にある。実態が在るようで無いという不思議な呼称はごく当たり前に在るとされ使用されている。その微妙な呼称を作品のタイトルにしたデュシャンのセンスに感銘する。

 

 写真は『DUCHAM』TASCHENより