
この絵の中のどこに神々がいるのか、神々は見えない存在であれば、この絵に神々の不満があるというわけである。
《わたし達は自由である》という前提で生きているから、何を見ても甘受する傾向にあり、悪あるいは負の領域でない限り、むしろ受け入れることに抵抗を感じない。従順、素直である。
道路を走る車に運転手と紳士の姿が見え、そしてその上を疾走する騎手の姿がある。、確かにおかしい、車の上を馬が飛び越えないだろうという緩い感想を抱かなくもない。(でも、これは絵(空想)だから、現実ではないのだから)と、許容する。
「だから?」だから何だろう。
神々に発言の自由はないから、いつも黙認である。人間の思うがままである。
神々というのは《自然・在るがまま》であり《根源・主》である。その神々の怒りに、気づいていないという指摘がこの絵にある。
神々は人間の作った空を飛翔するといった不条理な空想に嫌悪している。伝説・神話・宗教・・・原初の神々《自然》は、人間界の創った人心を動かす力を持つ空想に異を唱え、怒りを持ってさえいる。そのことを暗に提示している、あまりにも秘かな謀に鑑賞者は首を傾げ素通りしてしまうのではないか。
空想がまかり通る世の中に『神々の怒り』は静かに沸騰しているというマグリットの遥かな見地である。
写真は『マグリット』展・図録より