
『記念日』
室内に巨岩石が鎮座している。岩は部屋いっぱいの大きさであれば、入り口から入れたとは考えにくい。
岩が先に、すでに在ったとしか考えられないが、岩の存在のために部屋を設えるなんてことがあるだろうか。
同時にあった、共存である。部屋は精神、岩は信仰〈神〉であり生きる術(糧)であれば、精神は信仰で満ち足りていた、あるいは洗脳されていた。ということかもしれない。
信仰ありき、そして自身が形成されていく。
自身と信仰のあり方を問うものかもしれない。絶対的な教えから逸脱することは許されないが、守られてもいる。この関係からの解放は困難かもしれない。この岩(『主なる神はとこしえの岩だからである』イザヤ書)を屋外(精神の外)に出せば自身も崩壊してしまうのではないかという畏れは、潜在的に硬く自身の中に結びついているのかもしれない。
この岩、ある意味不可解なものは自身を圧している、否、自身が内包しているのである。抱えた問題の深さは他者からは推しはかる術もないが、彼は確かに重く、大きなものに本来の自由を拘束されていると感じ、そのものと対峙している。
写真は『マグリット』展・図録より