
開閉が可能に見える箱の上に男(人間)と鳥の頭部が乗っている。あくまで一部分に過ぎないそれを男と鳥だと認識し、一部分を見ただけで全体像を想像出来るのは、すでにそのものを知っているからである。
首から下が欠けていることを不審に思いつつも、異常だとまで疑惑を持たない。切断された頭部は《死》である。しかし、目を見開いているせいで《生》を何となく受け入れてしまうという曖昧な判断にゆだねる傾向が疑惑を払拭する。
この画を見て残忍さや恐怖を抱かないのは、両者が目を見開いているせいである。そして、もしこの二つの頭部が地面の上であれば異なる感慨を抱いたと思う。
表情と設置空間における奇妙なトリックによって、この状況を肯定してしまう。しかも『宝石』というタイトルであることによって、謎めく答えを探そうとする意識が働く。
全くの不条理を正当性へと誘い込む《言葉》という媒体。しかし、つなぐべき関連、関係性が皆無であることに気づく。
『宝石』は存在しない。存在しないが、めくるめく知の巡回を促す作用をもって『宝石』としたのではないか。
人間は考える葦であると。
写真は『マグリット』展・図録より