逡巡だろうか、否、結論である。『終わりなき認識』という答えである。屋内のわたくし(マグリット)は開口より見える謎の球体と同じ目の高さにいる。
 遥かに距離を置いた向こうは計り知れないほど高い山の彼方に位置している。見えているが、決して手の届かない時空は、しかし厳然として存在する、わたくし(マグリット)が認識の究明を手放さないかぎり目に前に立ちはだかるだろうと思われる。

 もう一人のわたくし(マグリット)である。考え(認識)があんなに手の届かない場所に浮遊している。球体の上のわたくし(マグリット)は地上の人ではなく、認識という世界の上に立ち、地上のわたくし(マグリット)を観察しているという関係である。

 大いなる誤解は時空の曖昧さにかき消され主観と客観は一致するかの錯覚を抱く。この関係性を正しく認識することが、本来の認識であるとするならば、決定的な正解は望めず、常に転落の危機を抱え込まねばならない。
 なぜなら、双方とも立脚点の不明を解消できないからである。
 証明は存在の本質への挑戦である。

 写真は『マグリット』展・図録より