降り積もった埃、ここには時間の集積があることはもちろん空間の中に浮遊していたはずの微塵が重力により下降、沈下したという事実がある。
 当然の理が正しくここに在るという認識により、その存在を決定づけられる。

「我思うゆえに我あり」 
 思うという認識がなければ、ここに在る埃はその存在を霧消していく。あらゆる現象は忘れ去られる宿命の中にあり、わたくしという個さえ生老病死の時間を辿りながらいつかは無に帰していく。

 世界は発見である。見えていない未発見なものは無いに等しい。つまり「埃」は発見されたのである。そこに在るという事実として記録された埃は、現象の刹那、切り取られた時空の産物である。
 生々流転は物理的現象の集積によって世界を変えていく。現時点は歴史という連鎖の前衛である。

 埃そのものはメッセージを残さないが、ここに《記録》という媒体が介入することで自然の摂理が開示される。発見・記録された「埃」に価値を認めるのは難しい。需要がないからである。
 需給の領域外に置かれたものへの眼差し、デュシャンの自嘲が垣間見える。


 写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク www.taschen.comより