
『埃の栽培』
白黒写真、デュシャンの要望に応じて埃がつもった状態のままでマン・レイが撮影。
空中の微塵、人がまき散らした微かな埃・・・故意という意思は微塵もない。人が生き、暮らしている生活圏に浮遊していた埃が重力によりいつかは地に落ち果てるという状況である。
栽培という意思の欠片もないが、究極、人が育てたと言えないこともない。
無意識・・・混沌、計算も計画も歯が立たない成り行き。
偶然の集積である。しかし結果は必然であり、そうなるべくして成った景色に他ならない。偶然と必然の一致した光景に共鳴する人は滅多にいない。単に生活の汚れ、取り除くべきものとしてのゴミにすぎないからである。少しの湿り気で細菌やウィルスの発生を呼びかねない忌むべき状態でもあり、美の範疇に届かない。
育てるという意思をもつことは研究者以外はいないと思うが、この現場には時間の集積がある。風が吹けば形を変え、雨が降れば消えるだろうこの刹那、あるいは現象が記録されることは稀有である。
無意識・・・こうしようとしてこうならない現象は哲学的には問題を孕むかもしれないが、現実的には衛生上廃棄、清掃によって消去されるものに他ならない。
『埃の栽培』は時間と空間における緊密な関係の一端である。
写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク www.taschen.com