『花嫁』

 この作品を見ていると、いったいどこに焦点を当てたらいいのか迷ってしまう。どことどこがつながり、どこへ流れていくのか、なにを前に押し出そうとしているのかが不明瞭である。
 個々の部位はそれぞれ意味ありげであるが、果たして何のためなのかという目的が見えてこない。起動しそうでいて起動は不可であることが接続部分の無意味によって判明してくる。

 凝視することで意味の不明が見えてくるという仕組みである。
 それを『花嫁』と名付けている。花嫁は妻の手前の仮称であり、ギリギリの独身者である。これは『フレッシュ・ウィドウ』(なりたての未亡人)と対を成すものではないか。

 有るといえば有るし、無いといえば無い。存在の根拠が希薄・不明であれば、それを認可するのは困難であるという状況を作りだしている。
 この作品を見て『花嫁』であると断定できる要素は一つも無いのだから。
 要するにタイトルによる告示によって鑑賞者は『花嫁』の欠片を見出そうと努める。
《曖昧さ・混沌》の中に浮上する《無為》に、鑑賞者は呆然と苦笑いするしかない。探す、あるいは求めようとして探しえない物という抽象を追求している。
 
 男と女の垣根を取り払えば存在の根拠(SEX・誕生)は霧消してしまう。
 デュシャンに於ける《無》の追及、眼差しの刹那である。


(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)