
『終わりなき認識』
シンプルな室内から眺め渡した景には、険しく高く不毛のように見える山々が続き、その上に浮かぶ球体の上に一人の男が立っている。
《わたくし》は、《宙に浮かぶ球体の上の男》と対峙している。男はわたくしであり、わたくしはあの男でもある。
光は球体に当たっているが、男は陰のなかに在る。男は遥か向こうを見渡しているが、自身の立つ位置の危うさには気づいていないようである。
宙に浮いているという存在は、むしろ不在に近い感覚で、現場確認は困難な状況と言えるかもしれない。自身の存在の根拠の不明・・・。
認識とは主観である。見聞きした状況を、直観・感性・理性・知性などで判断した意味づけを認識と呼ぶのではないか。いわば情報の収集が認識を導くのである。
この絵における男の立ち位置の不安を男は知らない。にもかかわらず男は見る(情報の収集)のポーズをしている。転倒し奈落の底に落ちるやもしれないが、その状況を知らなければ一抹の不安も無用である。
男は世界を認識しようと努めているのかもしれないが、男の存在自体が危うい。この不条理を乗り越えられる認識というものはあるだろうか。
『終わりなき認識』は、認識に完結がないことの証明である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)