生きていくということは、日常の些事から大きな教えを学び取ることかもしれない。自分の思い込みを削り、他者の考えに照らし合わせながら修正していく。
 迎合とは違う、自身の眼差しの矯正である。

 信じていることが必ずしもベストではないこと、自分という思い込みを棄てて他者との共存に喜びを見い出した時の思いがけない歓喜。
 《あなたがいてわたしがいるという》単純かつ明快な論理、あなたという対象が複数になり世界が広がることへの確信は勇気と希望を膨らませてくれる。

(井の中の蛙)という消極的で無難かつ翳りある日常と少し距離を置いて自分を鑑みると、見えなかったものが見えてくる不思議な現象が生まれる。


 恥ずかしいから隠れて生きていく、自分を否定してばかりの時間の集積が自分を圧していたかもしれない。
 「勉強しようかな」と母に言ったら、「何を今さら・・・」と苦笑いされたのはちょうど息子たちと同じような年齢だった。
 あれから三十余年、《何を今さら・・・》と苦笑いしながら、教えていただくことに挑んでいる。(他者の存在そのものがすでに教示の情報を潜ませている)

 そうして今、《生きることは教えてもらうこと》だと・・・ようやく気付いたような気がする。それは、むしろ《わたしがわたしであるため》の学びである。