平々凡々、何と言うこともない日々である。つまらない日常と言い換えてもいいかもしれない。

 この曇りガラスで見ているような空気に風穴を開ける意思、やる気のスイッチをいれるにはどうしたらいいのか。ハタと考えてしまう・・・。
 考える間もなく日常の作業に身体のほうが慣れていて無意識の内に昨日と同じ動作に明け暮れて行く。掃除をしても一陣の風が吹けば元の木阿弥、草取りをしても次から次に繁っていく猛威、洗濯をしても・・・だから・・・。


 いつまでこんな虚しいことを続けるの?(死ぬまで・・・)
 
 この考えは、日常への侮辱にほかならない。

 罰として巨きな石を山頂に運ぶことを科せられたシジィフォス、やっとの思いで運び上げた石は自分が麓に帰りつく前にすでに転げ落ちており、それを日々繰り返すというシジィフォスの神話を待つまでもなく、繰り返される無為とも思える日常。


 悲しいかな、わたしは負の感情に犯された病人に過ぎない。日々の瑣末とも思える作業を歓喜とまでいかなくとも、楽しく嬉しいリズムを持って遂行できたならと、思い返す。


 そう、こんな年になっても、夢見る王子様は必要なのかもしれない。ある日、わたしの許にやってきて「よくやってるね」と褒め、手を差し伸べてくれる王子様がどこかにいると信じる乙女心。平凡な日々が愛しさに満ちた薔薇色に輝く夢想。

 錯覚や妄想を日々の糧として、さぁ、今日も能天気に頑張るゾ。