三本松学芸員によると「抽象作品には考える糸口として題名を付ける傾向があります」とのこと。

 松本陽子の「思考回路1」作品と観賞者を結びつける「思考回路」という言葉は、観る側にはすぐに伝わってこないが、立ち止まらせる不可解がある。
 視界全体に拡がるこの緑の鮮明と混濁は、やがて沈下していくのを感じさせる。何かが閃くというより拡散したまま静かに透明清涼な空無へと降りていく。集中ではなく大いなる肯定とでも言うべき平穏な重みがある。にもかかわらず、浮いているという不条理である。
 もちろん緑一色でなく赤系統の混濁は抵抗とも迷いとも見える。つまりストレートでない複合的な錯誤が、あたかも敵の襲来のように火花を放っている、その痛みに重なりはしまいか。
 グリーンという色の含む意味の多様、視覚に於けるグリーンという色の位置・・・黒でも黄色でもピンクでもないグリーンの選択。軽くはないが過重でもない、しかし閉じられた厚みには確たるものがある。その印象に、占める領域はあるが、決定はなく僅かな戸惑いを残している。少なくとも悪とは決別を意味するグリーンかもしれない。

 思いが精神の根源へ届きそうで届かず、圧しているのに浮いている。けれど少しずつそれら抵抗を打ち破って精神の根幹に向かう細い流れが幾つか見えるが、この先に答えがあるかは確認不可である。

 沈思黙考・・・この扉を開ければ深い回路が目指すべきを求めて直、否、紆余曲折を経ての思考回路がある。
「思考回路」は、光(情報)を、頭脳あるいは感覚器官へと伝達するための私的装置ではないか。

 観賞者との距離を踏まえての作品は、威風堂々、しかし、色面構成や彩色の発言力による、自身の告白のようだと感じた。(神奈川県立近代美術館/鎌倉館『光のある場所』展より)