美術(絵画)の範疇が二次元制作の枠から離れて立体になり、時空間を意識下におくという前提はごく当然の事となって久しい。(フォンタナが画布をナイフで切り裂き、デュシャンが「泉」と命名した便器を提示してから既に半世紀以上の時が経っている・・・)


 絵画といえば、平面制作(洋画、日本画etc)という思い込みが一般的な傾向である。
 けれど、進出のアーテストたちは、「絵を描くのは古い、陳腐でさえある」と一喝してあらゆる素材や機能を活用し、現代である前衛的な象徴を模索してきた。

 対象を描くという行為ではなく、対象(世界)に対して何を感じ、何を媒介にすれば、対象(世界)の表現(提示)が可能になりうるかという観点である。

 世界は必ずしも存在(有)が全てではなく、非存在(無)によって支えられている。有と無の奇妙な揺れを実感させるには・・・作家は思案する。象形(媒体)無くして観察者に伝える術がないからである。

 音、光・・・感覚器官に訴える、音はするが実態がないもの(あるいは移動)、光はあるが存在は隠れて見えないもの・・・イメージを超越する拡大(縮小)、または質的変換により本来の姿を失うもの、空間を取り込む変移・・・試行錯誤が、そのまま現代美術の範疇を闊歩しているといってもいいかもしれない。
 しかし、鑑賞者はあくまでも美術の美にこだわり、それを基準にしているから受け入れがたい亀裂が生じてしまう。

 ごくナチュラルにその空気(作品)に身体を預けるだけで、作家の意図が見えてくることがある。積み重ねた観念のデーターがそぎ落とされていくときの快感、それが現代美術との接点かもしれない。現代美術はある種「哲学」であるがゆえに、本来正当化されるべき学習というデーターの積み重ねはむしろそのものを見えにくくする傾向がある。

 見えないものを見るという透徹のスピリットを研ぎ澄ます必要があり、単純に(子供の絵は素晴らしい)といった無邪気さとも異質なのである。
 わたし達は宇宙における地球という星に住む生物であり智をもった人間であるという原初的感想が、出発点であるかもしれない。