この作画(作品)をじっと見ているが焦点が分散され、つまり然るべき目的(焦点)を定められない。何を描こうとしたのかが不明である。
 『花嫁』という厳然たるタイトルに結び付くものを集積されたデーターから引き出せない。
 花嫁という華美ともいえる雰囲気が微塵も感じられないのである。機械の一端のようでもある作画は機能を予想させるが根拠がない。
 存在するが見えていないだけなのか・・・作品(作画)が総てであればその可能性はない。

 つまり、この不可解がデュシャンの意図である。
 有るようで無い《花嫁》という実態。(花嫁)は存在するという主張は正しいに違いない。故に『花嫁』を描いてみた見解がこの作画である。
 女が処女を脱しめでたく女という領域に達する?そんなものは花嫁を通過しなくとも理の当然、人類の根拠である。

 『花嫁』という美称(仮称)の異時空間(雰囲気、認可されたもの)への妬み、否、憤りさえ感じる《男の中の女》が厳然と居ることの隙間から覗いた景。
 『花嫁』は曰く言い難い不思議を醸している。

 写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク・TASCHENより