
作品は閉じている、が穴や亀裂があることで開いてもいる。
解放されているが閉鎖を余儀なくされている。
この作品の用途に関していえば、使途不明、徒労ゆえの困憊がある。真善美からの基準には相当せずただ存在している。存在を主張していると換言できるが空無を除去できない。
在るが不必要である。しかし存在意義においては(無に通じるみちすじ)を開示(醸している)。
したり顔で通り過ぎる人は現実を享受し幸福な人に見え、立ち止まり深く肯く人は現実を懐疑的に見て不安を知っている人に見える。
辛うじて立っているこの作品はこの一点でしか毅然と立てないのではないか。
『ザムザ氏の散歩』と名づけられた作品は回遊しつつ閉じた世界から抜け出せない絶望を感じる。穴(開口)は解放、新しい世界の入口に見えるが、重力を持ち歩きだせる場への期待は薄い。
『ザムザ氏の散歩』は《残酷と反逆》が内在している。
写真は日経「『現代陶芸の開拓者たち・十選』川北裕子」より