「まるめて玉になったメモ用紙」

 まるめて玉になったメモ用紙には人為のプロセスがあり、結果であり、後の時間もあるに違いない。時の流れの中の一刹那、切り取られた瞬間は写真に撮られることで時間を止める。

 メモ用紙に刻まれた内容は不明であるが処分(廃棄)によって内容は葬られるはずのものである。重要か否かではなく不明が醸し出す内容の膨らみが《まるめて玉になったもの》には在るかのような疑心が過る。

 不要だからまるめて捨てたのであって有用の領域には外れたものである。しかし敢えて写真に撮るという行為によって謎めいた意味を被せられ、あたかも《意味の主張》がそこに在るような錯覚を抱かせる。
 廃棄=無である。厳然たる事実の前に「まるめて玉になったメモ用紙」には《有=存在》を知覚させる作用をもたらし、鑑賞者はそこに在りもしないドラマを夢想する。

 写真というプロセスには撮影者の意志が紛れもなく存在している。
 この静寂、物言わぬメモ用紙の玉は世界を包含し鑑賞者を引きずり込む。一時的な精神の破綻(迷いの衝撃)は凝視することで醒めていく。(単なるまるめられたメモ用紙である)と。

 点(まるめて玉になったメモ用紙)は、周囲の空間を巻き込んで偽空間(対峙する鑑賞者の精神的な空間)をつくる。瞬間的な錯誤はやがて元の(丸めて玉になったメモ用紙)に還っていく。
 この写真に内在するものは「存在への問いかけ」である。

 写真は日経新聞(2/22)『ありふれたモノか否か』より