『9つの雄の鋳型』

 9つの雄の鋳型というタイトルに必然性を感じず、9つと雄と鋳型の関係性を見出せない。
 タイトルは伝えるべき意味を分解不明にしている。

 作品を見るとさらに奇妙である。確かに9つという数字に当てはまる対象物が描かれている。しかしこれは鋳型なのだろうか。鋳型は内側(見えない)に意味があり、外側(見えている)は意味がないはずである。取っ手や細い部分などは問題外であり鋳型職人から見れば、首を傾げる他ない代物である。
 外観が鋳型で作られた物であるという風に解釈すれば肯けるが、それでも実用を想起できるものではない。そして《雄》である必然性も希薄というより見えてこない。

 これらが意味するもの・・・条理の放棄、意味の分解、観念からの解放・・・もっともらしい集合は何かを連想させる、無理にもタイトルと結びつけようとする。作品を鑑賞しようとする鑑賞者の側の積み上げられた学習データに抗うものである。

《どこに真実はあるか》という問いである。
 デュシャンは静かに問いかけ嗤っている、常識への反感である。

 写真は『DUCHAMP』TASCHENより