五十年以上 前の話である。勤めていたビル内に弁護士事務所があり、そこの秘書の方と懇意にしていた時期があった。一人で退屈なのか、簡単な書類の清書など頼まれることがあり出入りを許されていた。
ある時「先生のお宅の改装でお祝いに伺ったら、みなさんすごく良い方たちばかりで親切でしたのに、近頃先生は冷たくて電話連絡だけで帰宅してしまうことが多いんです」とこぼした。
そういえば彼女は先生の愛人だという噂があったけど、そんな風もなく清楚で優しくまじめな印象を受けていた。けれど、(ああ、そうか)今になって肯ける。
先生の書棚には「存在と無」(サルトル)が並んでいた…双方真面目な人物だったに違いない。
だからこそ、先生は自分の身内の優しさを裏切れず彼女を避けるようになったのだと。