年を取ると多くの機能が劣化する。物忘れ、歩行困難など何処をどうすれば回復するのか…見込みのないことを悟り愕然とする。

 仕方ない、諦念はごく当たり前の感情として自分に言い聞かせる(若くないんだよ)と。

 負ける、敗北の妙。テストのような数字化はないから気楽ではあるが現実の悲哀は隠せない。


 けれど、私は勝利したことなどあったろうか。無い! まるでない。
 徒競走にしてからビリから二番目がいい所、球技など須らくただ恐怖でしかなかったし、勉強の方も真ん中くらいの目立たない生徒。ずうっとぼんやりしたまますでに人生の幕を下ろそうとしている。そのわたしが劣化なんて大笑い、はじめから落ちこぼれていたのに、そこに気づかない。

 三十代の半ばのある日、病身の母に「勉強してみようかな」と言ったことがある。すると母は「なにをいまさら」と鼻で笑った。
 (期待外れ、ただのおばさん、そんなことにも気づかないのか)母は娘の提案を一笑に付し(たまには真面なことも言うんだねぇ)とも思ったに違いない。
 足りない能力、それは自覚するところ。そこから何か生まれないか、わたしはこのまま終わるのかという絶望に似た悲哀を込めた呟きだったのだ。
 人は少しでも真面になろうと夢を見る、足りない能力で夢を見ながらあの世に逝くのもいいんじゃないかと思う。

 再生不可の枯葉であってもきっと《得るもの》はあるのだと信じている。