鋳型…この細い線状の部分がなぜ外部に有るのか、鋳型に外側の装飾は不要である。この複雑怪奇な形態の中に目的とする形態が刻まれているのだろうか。有るかもしれないし、無いかもしれないが、外側が何かを想起させるような作りになっているのは意味を持たない。

 雄…である決め手はそれぞれの生物によって部位が異なるが、形というよりは目視では判定できないこともあるほど微妙である。にもかかわらず(雄)であると指定されている。
 9つは二枚のガラス板に挟まれて偽空間(円形・サークル)を醸し出しているが、9つの物体は直立することが困難な形であり、それぞれは床面に倒れこんでしまう。硬質をイメージさせるが、それすら意味を持たない。

 無意味…意味からの逸脱、解放だろうか。よく見ると、よく見続けると、存在の空虚が見えてくる。
 見ることの不確実性、既に知っているもの(脳裏に刻まれたデータ)との比較検討を試みて、類似・近似の範疇に無理にも押し込めようとする知覚作用の働きで終止する。傲慢ともいえる決着は日常生活の中で、それと知る間もなく判断を委ねていることが多いかもしれない。
 よく判らないことも、既に収集されたデータ(常識)によって取捨選択していく。

 問題は目の前に定義されているが、認識不履行であっても人は平然と当たり前に生きていく。デュシャンはそれを直視している。

 写真は『DUCHAMP』TASCHENより