
「9つの雄の鋳型」
ガラスに油彩、鉛線、鉛箔、2枚のガラス板で挟む 66×101.2㎝
偽空間にあたかも9つのそれらしきものが立体的に見えるように置かれている。
「9つの雄の鋳型」と題している。
錯覚という現象が生じる、本来鋳型の中にある形態が外側に有るのかと、否、鋳型であるが外部にもそれとわかるように鋳型に収める形態を外部にも現わしているのかと。もちろん鋳型にそんな配慮入らず徒労である。
百歩譲り、鋳型で作られたものがこのような形態だと暗示しているのであれば、それを視察するしかないが、《雄》という領域を彷彿とさせる根拠に欠けている。
鑑賞者は作家の発言(タイトル)に寄せて考えるが答えは宙に浮いてしまう。決定的な具体性を見出すことができず曖昧なまま受諾してしまう。
この大きな溝、作家の意図と鑑賞者の観察眼は大きく広がったまま関係性の真実を解くことができない。この不審、疑惑に接点を見出せぬまま、何とか鑑賞の妥協点、共通項、肯定感に到ろうとする。
どこまでも続く平行線である《意図と鑑賞の溝》、これこそがデュシャンの眼目ではないか。分かり合えない時空への挑戦。「分かった」と明言するものへの微かな得心、巧妙な世界に亀裂である。
写真は『DUCHAMP』TASCHENより