金属と言っても多種類あるが、ふつうは固体をイメージする。金属は動物ではないから自ら接近するような発動力は皆無である。
 金属の中に何かを入れることは人為を持ってしか出来ず、相当な熱量を伴う。

 金属の中に入ったものを可視化することはできないが、ここではガラスという透明性を持った材を使用し、あたかも金属の中にを可視化している。
 水車のある独身者の器具などというものは聞いたことが無い。独身者はもともと誰でもなりうる自立した人間だと解釈を広げられるが、このような器具の必然性は微塵もなく無為である。

 この金属のフレームは回転するように作られており、実際に回転させることも可能かもしれず、その様子を思い描くことも可能である。つまり回転させれば内部は遮蔽され、有るかもしれないが無いかもしれないという領域に属すようになる。

 言葉の羅列は意味を分解させ、言葉そのものの持つ意味を打ち消していく。言葉を解放していると換言してもいいかもしれない。つまり、この作品は意味を探ろうと労を費やして行けば行くほど《無》へ接近していく。素材の駆使は本来の目的を外し、予想外の異世界(意味の解放)を告知している。

 写真は『DUCHAMP』TASCHENより