
(接近する金属の中に水車のある独身者の器具)このタイトルを聞いて具体的な状況を想起できる人はいないと思う。
接近する金属などというものは無い。金属は動かされる物、活用されるべき物であって、人間の知覚作用に因るしかない。
金属の中に水車のある・・・自然の景ではあり得ず、もし、存在するとしたら人為的な工作である。
独身者の器具・・・そんな物があるだろうか、しかしこの作品の景が然りだという。
作品は回転する、拠って確かにフレームの金属は球体として浮上する、しかも内部は空間であり水車めいた対の輪と水を受ける板がある、極めて貧弱でエネルギーを出すに及ばない代物であるが。
つまりタイトルを肯定すべく準えて、あたかもそのように巧妙に作られている。しかし、看破は容易であり、否定は免れない。
肯定か否定か、鑑賞者は作品の前で戸惑いを隠せない。
答えは存在の分解、そして破壊・・・そして無に帰すべく作られた有(そこに在るもの)なのではないか。
潜在意識、観念の崩壊、《存在(作品)を通して概念の全否定を試みている》告発かもしれない。
写真は『DUCHAMP』TASCHENより