
この作品に感情移入することは可能である。たとえば、角砂糖型の大理石32個などは画一化された大衆と見ることができるしイカの甲は圧政たる権力、温度計は監視などというように。
しかし、告発はなく、あるがままであり、生死の循環もない。
《静止》動き出す恐れもなく、時間の中に潜むのみである。劣化しやがて滅びるという摂理は通用せず、少なくとも人間の持つ時間内では変化はない。
地層なども100年単位くらいでないと質の変容を確認できず、時間という概念からは遠い。
この沈黙、この平静、永久の持続。鳥かご(任意の空間、領域)の中で至近に接触するこれらは仲間という関係性の条件を満たさないが、これを見る鑑賞者は関係性という概念を捨てきれずに内包するデータを駆使し、探求という徒労に走るかもしれない。存在は時空と密接に結びつき、それを外れるものではないと。
曖昧さ・・・しかし、物であるという主張は厳然と存在する。無視できない存在との対峙、(無意味)への抵抗、概念の破壊・崩壊は、決してゼロという無空には至らない。
「ローズ・セラヴィよ、何故くしゃみをしない?」は、問題の提議であり、答えである。
写真は『DUCHAMP』TASCHENより