「私が1から数を数えますからね。
声に出してその後について来て下さい」

 

手術台に寝かされた私に、看護婦が麻酔注射を打ちながら
語りかける。

 

「いーち」「いーち」
「にぃー」「にぃー」

 

人の後について、数を数えるなんて何年振りだろう。
小さな子供に戻ったみたいだ。

 

「3」

 

という声を待たずに、私は意識を失った。

 

結婚して5年目、初めての妊娠だった。

不妊治療の効果も出ず、もう子供は望むまいと決めた
矢先に授かった大切な命だった。

 

妊娠が判明した日、嬉しくて嬉しくて部屋中を理由もなく
ウロウロと歩き回った。

 

その2週間後。


突然、大量の出血があり緊急入院。

呆気ない幕切れだった。

 

「今回は諦めましょう」

 

医師は淡々と経過を説明する。

 

「妊娠反応が弱くなって来てますから、もう無理です。
よくある事ですよ。

早めに処置をして、また次の為に頑張ってください」

 

カーテンで仕切られた隣のベッドには、昨日産まれたばかりの
赤ちゃんが、母親の腕に抱かれて眠っている。

 

お祝いに駆けつけた家族の人たちにも、この医師の言葉は
聞こえていて皆一様に押し黙っている。

 

救うことは出来ないのだ、誰も。

次の為に処置をする。

次の為?
何の為に?

 

数週間でも、私の中で懸命に生きていた命は処置される。

 

処置…

 

なんて嫌な言葉なのだろう。

 

暗い…暗いなぁ…ここは、何処?

 

…薄暗く長い廊下が見える。

 

窓の外は雨に濡れた、冬枯れの木立。

 

寂しくてたまらない…

 

「私、死んだんだ…」

 

え?誰?誰の声?

 

「これが死というものです」

 

え?どういうこと?

 

気が付くと、窓のない銀色のドーム状の部屋にいた。
ひとりの男と私。

二人とも同じ銀色のジャンプスーツのような服を着ている。
昔見たSF映画のシーンのようだ。

男は静かに佇んでこちらを見てる。
見覚えのない、黒いあごひげの男。

 

誰だろう。

 

でも、妙に懐かしい感じがする。

 

そうだ。

 

私はずっとここに居た。
何千年も何億年も、ここにこうして居た。
時間の概念などない場所。

一瞬も、永遠も、この場所は含んでいる。
全てが在り、全てが無の場所。

 

そうだ、私はここで生まれここで生きていた。

この男と共に。

突然、辺りが白い光に包まれた。

薄い色鉛筆で描かれたような、ぼんやりとした一面の
花畑が、風にあおられ波のように揺れている。

 

虹色の雨が降る。

 

踊るようにうねりながら、いつまでも降り続いている。

 

遠くから、産まれたばかりの赤ん坊の泣き声が聞こえて来る。

か細い声が、少しずつはっきりと強くなる。

 

下腹部に強い痛みを感じた。

その痛みが、私に肉体があることを思い出させた。

 

ゆっくりと感覚が戻ってくる。

身体が重い。

痛い。

呻き声を上げて、ベットに横たわっている私。

 

「気が付きましたか?

手術は無事に終了しましたからね」

 

朦朧とした意識の向こうに、看護婦の明るい声が聞こえた。

 

そうだった…

 

私は手術を受けたんだ。

私は流産してしまった。

今、その処置の為の手術を受けていた。

 

もう終わったんだ…

 

前後の辻褄が、パズルを合わせるように時間をかけて

整理されて行く。

 

銀色のドーム、虹色の雨。

リアルな感触が生々しく残っている。

 

「私、死んだんだ」

 

「これが死というものです」

 

あれは、誰の声だったのだろう。

 

私自身の無意識の言葉か、それともその瞬間まで懸命に

生きようとしていた、胎児の声だったのか…

 

じわじわと恐怖が襲ってくる。

 

永遠のように感じた長い長い夢の中で、私はこの現世でのことを

何一つ思い出せなかった。

 

この世で経験したこと、私が愛した人、物、思い出、それらの

掛け替えのない物の全てが「無」になっていた。

 

それが死というものなのだろうか。

 

もし本当にそうなら、生きるということは、なんて寂しく儚いもの

なのだろう。

 

何もなくなってしまった。

 

つい数時間前まで、私の中で息づいていた新しい生命も、

今はない。

 

「空っぽ…空っぽなのよ」

 

生きていること自体が幻のようだ。

 

確かなものなどなにもない。

 

外は激しく雨が降っていた。

 

夫に抱えられるようにして車に乗った私は、ドアを閉めると
声を上げて泣いた。

 

怯えた子供のように叫びながら、大声で泣き続けた。

 

夫は黙ったまま私の手を握っている。

 

ふたりの手の上に、涙がばらばらとこぼれてくる。

 

そうだ、この手の温もりは今、確実にここにある。 
たとえ、いつか全てが無になってしまうことがあったとしても、
この瞬間は永遠に繋がっている。

 

もう少し泣いていよう。

もう少し温めてもらおう。

 

今はそれでいい。

 

強い命の輝きは、その影にある死の色も濃い。
生と死は背中合わせだ。

 

それだからこそ、儚いものの確かさを見つめて生きることが
出来る。

 

雨は激しさを増していた。

 

忙しなく動くワイパーの向こうで、光をおびた景色が虹色に
輝いて見えた。

 

全ての終わりは、はじまりに続いている。