生きることと死ぬことは、一対。
それは、わかっていることだけど…
大切な人を失った時、残された人はどうやって立ち直るのだろう。
大切な人の死に、自分が何らかの形で関わってしまった時、人はどうやって、その罪と折り合いを付けて行くのだろう。
49年前の出来事を、今はそれなりに受けとめることは出来ているけれど、私の心に差している影は消えない。
私が遊びが苦手なのは、誰かに遊ぶことを禁止されたわけではない。
きっと私が、私自身を責め続けているから。
あなたは、取り返しのつかないことをしたのだから、罪を償わなければ。
遊んでいる場合じゃないんだと。
洗面所に入り歯を磨こうとしている夫に、湯船から問いかけてみた。
行動がギクシャクするのは、罪ほろぼしかも。
なんか、生きていること自体が、申し訳ない気がするよ。
ガラス戸の向こうで夫は言った。
「あなたは、自分の影の部分を消そうとするから、苦しいんでしょ」
そう。
もう、自由になりたい。
もっと、楽になりたいんだけどね。
「49年前のことは、あなたのせいじゃない。
4歳の子どもが、責任を負えることでもないしね。
悪いのは、窓に安全柵を付けるとかの対処をしなかった大人だよ。
でもさぁ…
影って、消さなくて良いんじゃないの?
日なたばっかりだと光が強すぎて、砂漠みたいになっちゃうよ。
人間砂漠。
影があるとさ、そこは適度に潤ったりして、コケなんかもはえたりしててさ。
それはそれで、風情があって良いじゃない。
人も木陰で休んだりできるじゃん。
光が当たると、必ず影も出来るんだよ。
光と影は、セットね」
あぁ、そうか。
影は消えないよね。
だって、その影と一緒に、50年近くも生きて来たんだもんね。
影も、私の一部だもんね。
「影も含めて、愛しいと思えたら良いんじゃないの?
影があるからこそ、光がキレイにみえるんだしさ。
それに、表現する人間には、影がないと。
影があるからこそ、魅力的にみえるんだし。
あなたも、それは、充分にわかっていることじゃない」
確かに、そうだった。
人間の魅力は、光が当たっている部分だけじゃない。
脆さや情けなさ、悲しみや苦しみの影の濃さ、そしてそこから立ち上ってくる、強さやしなやかさ、美しい色合いを持った光の中にこそにあるものだ。
私は、亡くなった妹のおかげで、その悲しみを超えられなかった両親や、周囲の人たちの影を感じ取れたおかげで、歌い表現し、声と関わる仕事をしてこられたのかもしれない。
そういえば、トーベ・ヤンソンが描くムーミンの世界に、「ムーミンママはお芝居が下手」だという一文があったな。
その理由は、「幸せだから」。
不幸や悲しみや苦悩は、表現をより美しく高める妙薬。
さすが、ムーミン。
奥深い。
不幸や悲しみや苦悩は、表現をより美しく高める妙薬。
さすが、ムーミン。
奥深い。
「そうそう、木漏れ日だよ。
木漏れ日って、キレイじゃん。
光と影で出来てるでしょ。
どっちも、必要ってこと。
どっちもあるから、美しいんだよ」
ひゃあ~~!
お前は、乙女かっ!!
と突っ込もうかと思ったが、黙っていた。
泣いて、自分を責めて、悲しみを味わい尽くした先に、柔らかい光が差し込み、美しい影が出来る。
そうなって初めて、人は自分自身も他者も、悲しみを知る人間同士として、許すことが出来るようになるのだろう。
私もあなたも、苔むす庭。
もしくは木漏れ日。
光と影が織りなしている、美しい文様。
「うわ~、オレ、なんか冴えてる~。
歯を磨きながらでも、良いことが言えるんだよなぁ。
明日、休みだからだな!」
嬉しそうに笑いながら、夫は歯磨きを終え、洗面所から出て行った。
これだけ含蓄のある言葉を、夫は歯を磨きながらしゃべり、私は、湯船の中でゆだりながら聴いていた。
少しのぼせた私は、
「あぁ私、今、自由だな」
と感じていた。
少しのぼせた私は、
「あぁ私、今、自由だな」
と感じていた。
(おわり)