「誰にも見られたくない」
「壁と同化したい」
「このまま、消えてしまいたい」

レッスン室で、よく聞くセリフです。

「存在を消したいから、息を殺して、声を出さ
 ないようにして、人の影に隠れています」

と言った人も。

それでは、透明人間になってしまいますね・・・

  ◆◆◆

ずっと昔、私があるシャンソンのお店で歌の修行
をしていた頃のこと。

お店のオーナーでもあり歌手でもあった女性は、
当時の私にとって、とてつもなく怖い人でした。

お客様の前でも、ステージ中でも、怒鳴られる
なんてことは日常茶飯事。

私は、恐怖で震え上がって、なるべく彼女の目に
留まらないように、息を殺していました。

今思うと、息を殺してステージに立つ歌手なんて
あり得ないんですが・・・

それこそ、怒鳴られないために、透明人間になろ
うとしていたんです。

  ◆◆◆

その日のステージは、年配の男性歌手Tさんが、
ゲストで来ていました。

彼は、男性ですが、心の中は女性。
とても繊細で、おだやかな人です。

オーナーは、相変わらずご機嫌ナナメ。

言いがかりをつけては、スタッフを叱りつけて
いました。

やがてその矛先は、Tさんに。

私は、オーナーとTさんの間に立ったまま、
身をすくめるだけでした。

ふと見ると、Tさんは、オーナーの怒っている
顔を、哀しそうな表情で見つめていました。

そして、静かに言ったのです。

「僕を、恐怖でしばろうとしても無理だよ。
 あなたに、僕は、しばれない。
 
 僕は、恐怖にも理不尽な暴力にも屈しない。

 やれるものなら、やってごらん」

  ◆◆◆

私は、天地がひっくり返るくらいに驚いて、オー
ナーとTさんとを交互に見ていました。

おだやかなTさん。
そして、仁王立ちのオーナー。

彼女は、気をそがれたように、「ふん」と鼻息
一つを残して、店から出て行ってしまいました。

目を丸くして、アワアワしている私に、Tさんは
言いました。

「真実ちゃん、恐怖に勝てるのは愛だけ」

Tさんはひげ面のおじさんでしたが、その静かな
美しさに圧倒されて、私は言葉を失いました。

その後、店に戻って来たオーナーは、何事もなか
ったかのように、笑い歌い、とてもご機嫌な様子
でした。

  ◆◆◆

傷付いて、恐怖に屈していたその頃の私は、
自分を押し殺し、孤独で、攻撃的でもありました。

Tさんも、私が想像し得ないくらい、たくさん
傷ついて来た人だったのでしょう。

だけど、Tさんには、澄み切った透明な美しさと
しなやかさな強さがありました。

それは、けっして、抑圧された透明人間の虚しさ
とは違うものです。

たくさんの傷や痛みが、光を受けてより純度を
増したような、透明な輝きです。


今、私たちに必要なのは、Tさんの静かな宣言
ではないかと思うのです。

「私は、恐怖にも理不尽な暴力にも屈しない」。

私が私として、堂々と生きるために必要な、
静かで確かな宣言です。


 あなたの毎日が、歓びと美しい響きに満ちて
     幸せでありますように。

(2012年10月18日発行・メルマガより)