昨日、父の本籍地である熊本から書類が届きました。

ロシア政府が、41000人の日本人捕虜の記録を翻訳し、名前や住所などから照合した結果、父の実父(私の祖父)の死亡日時、及び埋葬場所などが分かったと、本籍地である熊本から、ロシア語の書類のコピーや、翻訳の結果が送られてきたのです。

終戦当時10歳だった父は、自分の父親がどこで亡くなったか、昨日まで知りませんでした。
書類を見ると、祖父は昭和20年8月30日に、旧ソ連軍に連行されてロシアのイルクーツク第七捕虜収容所に抑留されていました。

「え?でも、もう戦争終わってるよね」と私。
「そう、終ってから、連れて行かれた」と父。

この時、抑留された日本人は60万人とも70万人とも言われています。
18歳から45歳までの男性です。
しかも、祖父は当時体調を崩し満州の病院に入院中。
病人まで、強制的にかき集められていたのです。
祖父は、その年の冬に肺結核で亡くなり、イルクーツクの日本人墓地に埋葬されました。
享年38歳。
厳寒の地で、満足な食事も与えられず、病気の治療もなく、昼夜を問わず労働をさせられた上での死でした。
祖父と同じく、昭和20年の冬に命を落とした日本人は、収容者数の、実に30%にも及ぶそうです。

今まで私は、「おじいちゃんは、戦争で亡くなった」とだけ聴かされて育ちました。
漠然としすぎて、何の感慨も持てませんでしたが、突然、祖父の存在が、私の中で大きくなりました。
おじいちゃん、苦しかったろうな。
そう思うと、胸が痛みます。
祖父の写真は、火事で焼けてしまって1枚も残っていないのだそうです。
祖母も、数年前に逝ってしまいました。
父は今、どんな気持ちでいるのか…
もう少し、話してみたいと思っています。

私の12歳になる娘に、シベリア抑留のことを説明しました。

「なんで、そんな残酷なことができるの?
相手がどんなに苦しいか気付いたら、そんな酷いこと、 出来ないはずなのに!」

と、怒っています。
子どもの世界では当たり前のことが、大人になり、社会や国家間のことになると、当たり前ではなくなる。
殺人だって正当化されてしまう。
そして戦争は、今もなお、各地で続いている。
私は、そんな危うい世界の片隅に生きている「大人」なんだと、再認識させられました。

でも… なぜ、今だったんだろう。
祖父は、何を想って亡くなったのだろう。
理不尽な戦争から引き起こされた悲しみは、まだ終わっていないのだと、目の前に突き付けられた想いです。

祖父の声が聴きたいと思いました。