広島で育つ子どもたちは、義務教育の期間中、必ず「平和教育」を受ける。
年に何回かの特別授業が組まれ、原爆の恐ろしさや命の尊さを、講演や映画などで教え込まれる。
私もかつては、広島の子ども。
幼い頃には、両親に連れられて「広島平和記念資料館」にも出かけた。
ところが展示資料を見ただけで、帰宅後に発熱。
子どもなりに、死の恐怖を感じ取ったらしく、数日間は熱にうなされた。

数年前、2度目の訪問のチャンスが訪れた。
40歳を過ぎた大人だ。自分の故郷のいたましい歴史を、知っておかなければならない。
そう思って資料館の入口に立ったが、足がすくみ、動悸が激しくなり、変な汗が出た。
結局、恐怖に打ちのめされて入館不能。情けない話だが、広島の資料を見るのは今でも怖い。

1945年8月6日、広島でさく裂した原子爆弾は、当時の広島市の人口35万人のうち、14万人の人を死に追いやった。放射性物質を含む黒い雨は、広島だけでなく広範囲に降り注ぎ、土地も人も海も汚染した。
被爆した土地は70年間、草木一本、生えないとも言われていた。
私が生まれたのは、原爆投下から16年後。
戦後の匂いも、多少は残っていた頃だろう。
だけど私の知っている広島は、緑も河川も美しい、豊かな街だった。
たった数年で、広島は廃墟から見事に復興していた。

私の両親は、ふたりとも戦時中は満州にいたので、被爆していない。
だが私の周囲には、被爆者の方や被爆二世の方がいた。現在では、被爆三世の子どもたちもいる。
不幸にして、14歳で白血病を発病し亡くなった同級生もいたが、多くの方は健康に日々を過ごされ、子どもや孫に恵まれて穏やかに暮らしている。
そんな人たちを見ていると、資料館で感じた恐怖は、目の前の美しい街や穏やかな人にリンクして行かない。
「広島出身だからと言って、あえて原爆や核の話をしなくても…」
私は、胸のどこかに広島に対する後ろめたさを感じながら、意識的に原爆の話を避けて生きてきた。

だが日本は、まぎれもない被爆国だ。
66年前のあの日から、ずっと。

どうして日本は、被爆国でありながら、そんなに恐ろしい原子力を受け入れたのだろう。
日本の原発で、今までに使われた原子力は、広島の原爆の威力の8万倍だという。
放射性廃棄物の処理すらも自国で賄えないのに、こんな小さな国土に、危険な原発が55基も存在していたなんて。
なぜ…?

その裏には、米ソの冷戦や国家間の権力闘争、「原子力の平和利用」という名目での「核武装」の実態などが見え隠れしている。さらに、マスコミの情報操作や、莫大な利権。

たくさんの資料に目を通した。
だけど私には、やっぱり分からない。
国力も大事なのだろうけれど、本当に大事なのは、日々を暮らす私たちの小さな営みのはずだ。
人が人を愛し、子どもを生み育て、年を取る。そんな当たり前の営み。
笑い、泣き、誰かと誰かが手を取り合い、つながり合うありふれたひととき。
小さくてもはかなくても、そんなかけがえのない毎日を、私たちは切実なまでに、大事にして生きて行かなければならなかったはずだ。

日本だけでなく、世界が瞬時に終わってしまうような恐ろしいものを、私たちは身近に持ち、電力という形で、その恩恵を享受してきた。

もう、手放していい。
命がけで、原発で闘っている人たちの無事を祈り、一日も早い終息を願いながら、次にするべきなのは、全ての原発の火を消すことだ。
そうしながら、新しいエネルギーシステムを作り、被爆国である日本から最初に、原子力を手放さなければ。

確かな明日なんて、どこにもない。
だけど原子力の暴走で、一瞬にして明日を奪われるなんて、絶対に嫌だ。
せめて、子どもたちの未来に、明るい光を灯したい。
それは、原子の火ではなく、人の心の奥で燃え続ける、もっと温かくてもっと熱い光だ。

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