「野原を走る鬼火」


と、占い師から評されたことがある。


相当な変人なのだそうだ。私は。


思い当たることが多いにあって、納得。


ステージや表現の世界のことになると、その要素が吹き出して来る。


鬼火だけでは収まらずに、周囲を焼き尽くすほどになり、果ては、自分自身をも壊して灰にしてしまう。


これは、母からもらった血。


母は、自分自身を焼き尽くし、灰になり、人間であることを捨ててしまった人。


私は、そんな自分の血が恐ろしくて、どうやらこの十数年、無意識に「火」であることを封印してきたような気がしている。


幼い子どもの親として、鬼火の要素は毒になるだけだ。


抑えろ、静かにしてろ!と私は私に言い聞かせていた。


見境がなくなる自分が怖かった。


表現に埋没すると、狂うのはわかっていたから。


一方、夫は、「水」。


しかも、一徹な水だ。


水滴が長い年月をかけて岩を砕くような、そんな水。


この相反する「火」と「水」が一緒になったのは、何かそこに学びが必要だったから。


同じ表現の世界に生きながら、全く根差しているものが違う両極端なふたりが、こうして一緒になり、日常を営む必要がきっと、どこかにあったのだ。


神の采配・・・?


確かに、夫と娘の存在が、私の火を柔らかい「灯」に変えてくれた。


同じ火でも、社会におさまり、静かに周囲を照らす「灯」という役目もあるのだと教えてくれたのだ。


でも…


心の奥底でたぎっている火が、暴れたいと叫んでいる。


私も充分に年齢を重ねた。


40代も最後の年になり、ようやく、周囲も自分も焼き尽くすことなく、魂の火を「炎」に変えることが、できるようになるのかもしれない。


野を走り、人を面白がらせ、温め、活性化させる、そんな炎になれたら。


時には道を照らす灯りになり、時には、春の息吹きを目覚めさせる野の火にもなれたら。


封印を解く日が、近いのかもしれない。