私が行っている瞑想というものは、
下丹田に白光をイメージしてそれに集中することをです。
私は瞑想と椅子は関係ないと捉えていました。
何故なら、ブッタなどの先人は椅子にこだわっていなかったからです。
瞑想の座り方はあぐら・結跏趺坐(けっさふざ)・半跏趺坐が有名ですが
私が行っている瞑想というものは、
下丹田に白光をイメージしてそれに集中することをです。
私は瞑想と椅子は関係ないと捉えていました。
何故なら、ブッタなどの先人は椅子にこだわっていなかったからです。
瞑想の座り方はあぐら・結跏趺坐(けっさふざ)・半跏趺坐が有名ですが
鉄欠乏性貧血は生理がある方には多く存在する様です。
鉄はヘモグロビンになり、酸素を身体中に運んでくれます。
ということは、身体が酸欠状態になっているということですよね。
すると
・疲労、朝が起きづらい
・冷え
・風邪をひきやすい
・動悸、息切れ、めまい、頻脈
・頭痛、肩こり
などが現れやすくなります。
女性の冷え性は多いですよね。
ご相談いただけましたら精一杯サポートいたします。
施術には二つあると思います。
一つはその時に楽になる施術
もう一つは2−3日後に楽になる施術です。
これはあくまで、限界まで我慢して施術を受けられた場合です。
例えば、あなたはボートに乗っています。
床が濡れてきたのでみてみると、小さな穴が空いていました。
あなたはどうしますか?
1️⃣水を汲み出す。
2️⃣穴を塞ぐ。
水を汲み出すのは、見た目上水がなくなります(不快感がとれる)。
穴を塞ぐと水はボートには入ってきません。
これを施術に置き換えると
不快の原因を探って正していくことだと思います。
あなたはどちらが良いですか?
カタカムナは縄文時代に作られた日本最古の文明とされています。
日本語のルーツともカタカナの元とも言われています。
私が興味を持つきっかけは第五首の
ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ
です。
私の小さい頃祖父母などが数を数えるとき
ひー ふー みー よー いつ むー なな やー ここ とう
と数得ていたからです。
私は
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十
の略語だと思っていました。
しかし、ヒーフーミーが最初だった、そしてそれを昭和の時代でも使われていた
ということがわかったからです。
カタカムナに関しては楢崎氏の解釈になりますので、正しい確証がないので一般化はされていませんが
言葉が無かった時代の文明には興味があります。
ネット社会で生きる私たちでは想像できない野生動物に近い思考ではないかと想像します。
要は雑念がない。
今だけを必死で生きている。
これって修行僧が目的としていることですよね。
逆に考えると「縄文人は悟りをひらいていた」ってことになると思うんですよ。
その中で一番悟りを悟りをひらいていたのが
第一首に出てくる
アシアトウアンという人らしい。
おそらく個人名ではなく、今で言う「仙人」みたいな括りだと思います。
私は解釈を理解するのはぼちぼちにして
カタカムナ文字を書いて生活の中に取り入れていくことにしています。
生活への取り入れ方は、丸山先生の
魔法みたいな奇跡の言葉 カタカムナ
という本を最高にしました。
五年ほど前、縄文人の食器について気になりました。
それと同時に先祖の人のように、食器を自分で作ってみたくなりました。
そこから始まった陶芸教室。
ろくろをひいている時、先生に言われた言葉
「土の声を聞きなさい」
(自分の持つ作りたいから土にこうなれという思いをかき消し、土の状態に身体を合わせひく
というふうに解釈しています)
といわれ、衝撃を受けました。
いわば、私にとって陶芸教室は
「土(自然)の声を聞く修行」
となり、やめれなくなりました。
(本当は一通り食器ができたらやめるつもりでいました)
土の声がわかりはじめると
ただ食べれれば良いと思っていた食器が
使いやすさとか美しさとかに気が行くようになり
客観的にもわかり、先生にも変わってきたと言われるようになりました。
子供の頃から芸術は非生産で自分にとっては無価値なものと思っていたので
音楽とか美術などの授業は全く気が入らず、先生に怒られてばかりいました。
今年に入り「発声」を学ぶ機会もあり
「美しさ」というものに気が向くようになりました。
例えば、
陶芸の美しい作品の土の粒子はきれいに並んでいます。
美しいとは、粒子や波動の美しさではないのか
ということは、
美しい物には高いエネルギーが集まっているのではないのか
そう考えるようになりました。
自然の声を聞く
から
自分に寄り添って生きていく喜び
にどんどん変わっていったら良いなぁ
そう思います。