一人の人間の経験なんてたかが知れています。
裁判所にご厄介になる人たちというのは、
殺人、
強盗、
覚せい剤、
窃盗、
飲酒運転、
ひき逃げ、
詐欺、
痴漢、
わいせつ、
など、
こう言っては語弊があるし、罪の程度の差はあるのですが、社会の中の一部の人たちです。
一方で、それを裁く裁判官というのは、
幼少の頃から成績優秀、
進学校を経て、
東大に入学して、
司法試験をパスするために勉強漬けの生活を送り、
あまり遊んだり裏道にそれることなく社会人になった人たち
です。
親戚にも友達にも悪さをするような人はいないでしょう。
犯罪を犯す人たちの多くが、
貧しい幼少、虐待された幼少などの家庭環境にあるケースが多いです。
まるで正反対の人生を送ってきた人が、人を裁く。
個人的に日常生活の経験の中でわかる範囲はたかが知れています。
裁判官にはそれを補うだけの、
想像力、
そして
人間力
が求められることでしょう。
ここに、庶民が参加する裁判員制度の意義があるのかもしれません。
一般庶民の経験や感覚を注入させる、複数の庶民の経験を判断に活かす。
子育ての大変さ、虐待された経験、介護疲れ、パワハラ、セクハラ、登校拒否、過労、痴漢やレイプされた経験、
これは当事者のみぞ知る体験です。
エリートだけの判断に多角的で庶民の視点・感覚を入れることは意義のあることと僕は考えます。
人を裁くということは、単に法律論だけでなく、世界観、人生観、常識等、いろいろな要素が入ってくるわけですから。