アメンボアカイナアイウエオ
どういう訳か私は目を覚ますと田んぼの中にいた。いた、というか一体化していた。水が耳に入ってボワボワしている。体がすっかり埋まってしまって、動くに動けない。
頭が痛い。なぜこういう状況なのかを思い出すのを拒んでいるみたいだ。思い出せないものはしょうがないし、動かないものもしょうがない。
雲って案外速く動くもんだな、それに同じ形のままじゃない。私は案外とこの状況を楽しんでいる。
何時だ? 泥に埋もれた左手を肘から力を入れてやっと抜く。安いデジタルの腕時計は何も示していない。ショック。G‐ショックを手に入れなければ、と決意すると同時に、また田んぼにはまるつもりなのかと自分を笑った。こんな余裕まで出てくるものだ。
虚しくも私の声は青空にすぐに飲み込まれた。
「いーい天気ですね」遠くなった私の耳に届く声はいつもより低い。
「それにしても気持ちいいなあ」さっきより大きな声を出したつもりでもすぐにまた消えた。誰も返事しないのも気分がいい。
「あんた何してんだ?」
いきなりばあさんが目の前に現れた。逆光で顔はよく見えない。
「なんか動けなくて」口にするとすごく滑稽だ。
「起きれねえか」そう独り言にしては大きい声で呟くとばあさんは腰を起こして「ちょっと手伝っておくんなよー」
と大きい声を出した。元気なばあさんだ。間もなくしてぐっちゃぐっちゃと音を立てて、じいさん二人が視界に入る。
「姉ちゃん何してんだよ」の問いに
「動けねえってよ」ばあさんが答えてくれる。私は適当に笑うだけ。
じいさんのしわくちゃな手が私の手を掴んだ。
「せーのっ」で私はやっと頭がぬちゃっと持ち上がった。
じいさんたちの踏ん張りで、上半身が起き上がる。
また広い田んぼだな、なんて他人事。さすがに肉体労働しているだけあって、じいさんたちはばてることなく私を立ち上がらせた。
「いやあ、助かりました」棒読み。
じいさんばあさんは何か話しているが、立ってみると、田んぼの風景に目を奪われる。青々とした稲穂の間を泳ぎまわる沢山のアメンボ。カエルまで。優雅なもんだ。
重い足をばあさんに手を引いてもらいながらのっしのっしと畦道へ向かわせる。よくばあさんはひょいひょいと歩くもんだ。
そして全身ずぶ濡れ泥まみれな私は、農業用の車やらヤンマー的な機械しか通らないこの道でタクシーを待っている。
「さぶ」思わず身震い。さっきのじいさんばあさんは能さ国夢中だ。とりあえず風呂に入りたい。お腹もすいている気がする。
「すいませーん!」ばあさんがこちらを向いてくれる。
「なんだ姉ちゃん、まだいたのか」
「タクシーって・・・」
「通るわけねえよ!国道まで行かにゃよう!」
「どっちですか!」
「あーっちだよ!」
ばあさんの指は空を指している。なんだ、ここは地底国か。
「ねえちゃん!国道はちょっと遠いぞお」
じいさんが、まさか
「駅まで送ってやろうか!」
救いの声。
「ありがとうございます!」
「ちょっと待ってろな!」
そう言うとじいさんはざくざくと田んぼから出てきて軽トラに乗ってやってきた。私の目の前で車を止めて、
「乗んな」このじいさんに惚れそう。
「ありがとうございます」
助手席に座ると、お尻が冷たくて気持ち悪い。あまり整備されていない道路に車は大揺れ。ガツガツと頭をぶつけながら、私たちは沈黙。カーラジオは大相撲。
駅について、じいさんに丁寧に頭を下げ、下げてる合間に車が発車したことなんかに若干の切なさを抱く。駅名に覚えはないものの、自宅から乗り換え一本の案外近い所でることが分かった。本当に、何故こんな所に来てしまったのか、そんな疑問も去ることながら、それ以上に脳にこびりつくのは、田んぼの風景だ。
等間隔に並ぶ稲。その間を同じリズムで泳ぐアメンボ。得意げなカエル。
電車に乗っていると、窓の向こうにさっきまで私が埋まっていたであろう田んぼが見える。奴らはまだ泳いでいるのだ。
泥まみれの私に向けられる視線の一切を無視して、私は変な対抗意識すら芽生えた。
数日の後に私は学校のプールを訪れた。ピチピチの競泳水着と水泳帽を身に纏った男性に声をかけた。
「水泳は未経験なんだね。カナヅチ?それじゃあバタ足から始めようか。」
逆三角の背中に叫ぶ。
「すみません」
「何?」
「カエル泳ぎから教えて欲しいんですけど」
おわり