私にとっての3月12日。

2011年10月24日に 静脈胴血栓症で脳梗塞を発症。
脳梗塞の治療後、子宮摘出手術と抗がん剤と尖足の為のボトックス治療と家に帰る為のリハビリ を行う為、
K病院とT病院を行ったり来たりしながらの長期入院で
2013年3月12日にやっと家に戻った。

この日は、私にとって大事な日になると思い、入院中にインターネットで日付をいれたペーパーウエイトを注文した。


実際には、このペーパーウエイトはあまり利用してなくて、その時にテーブルの上にある物やいつも首からさげてるスマートフォンをおもしにしている苦笑

あまり過去にばかりとらわれてもしょうがないけど、この日家に帰れることになるまでに、病院のスタッフの方々、家族、友達、会社の先輩方など、沢山の人達に助けてもらったことは忘れないようにしたい。

普段日々のくらしにおわれていると、こういうことをすっかり忘れてしまうから、こんな日位は思いおこそうと思う。



K病院で子宮体癌が見つかり、私は子宮を取らずに治療することに決めた。

癌をこれ以上大きくさせないようにするためのホルモン剤を内服しながら、抗癌剤で癌を叩く。
ホルモン療法と化学療法(6クール)の併用での治療。
(結局、私の場合は、このホルモン剤の副作用で脳梗塞をおこしちゃったんだけど。)

それで、抗癌剤の6クール目が終わって、採血のためにK病院に来たところ、体の片側が動きにくくなっていることに気づく。
婦人科ナースのYさんが個室で、私の体の状態を確認してくれ、即入院することになった。
それから、間もなく意識がなくなる。
前にこのブログにも書いたが、意識がなくなる直前まで、なんとなくだけど、覚えてることもあった。

意識が戻るまでに何日間かあり、個室に入っていたらしい。婦人科のナースさん達に沢山世話になっていたんだと思う。

後から聞いた話だが、
婦人科ナースのMさんは、自分のCDを持ってきて、意識の戻らない私に音楽を聞かせてくれていたそうだ。

それで、私が意識を失ってから最初に発した言葉は、婦人科ナースのYさんに「CDが聞きたい。」と言った。



そうやって、一応意識は戻り、同じK病院の脳外科の病棟に移ることになった。

その脳外科に移してもらった時であろう記憶が、目で見た映像の記憶はないが、耳で聞いた記憶がなんとなく残っている。

まわりがにぎやかなだなぁ。と思い、近くにいる人に「ここには音楽はないの?」と聞いた。
後でわかったんだけど、その近くにいた人っていうのは、脳外科の男性ナースのMさんだった。

Mさん「何?音楽聞きたいの?」
私「うん」
Mさん「なんの音楽聞きたいの?」
私「アラジンの音楽。」
Mさん「あぁ、ホールニューワールドかぁ。Hさんが、クリスマスまでまだここに入院されてたら、音楽会でやるから聞けるよ。」

そんな会話をかわしたのを覚えてる。

それからこの脳外科病棟には、2ヶ月半位お世話になった。
私は、手のかかる患者だったようで、ナースステーションから一番近くの三人部屋だった。

恐らく、最初のMさんとの会話以降、まだ半分夢の中みたいな状態だったりで、意識がはっきりとはしてなかったみたい。
でも、耳で聞いたことは結構覚えてる。

その時、隣の外来棟を新しく建てる工事をしてて、工事の音がずっと聞こえていた。

恐らく、全く動けない私を床擦れがおきないようにと、体の位置をナースさん達が動かしてくれてたんだと思うんだけど、私は、自分は荷物に生まれ変わったのかな?なんて思っていた。

そして、若い女性のナースさんらしき人が「もし、自分の家族がこんな風にされたらやだな。」と言ったのが聞こえた。
私は、なんで本人の前でそんなこと言えるんだろう?と頭にきたのを覚えてる。

後から考えたら、きっと私は目をつぶってて意識がないようにみえたんだと思うけど。

そんな風に自分で体を動かせないから、脳外科のナースさん達には、下の世話から何から何まで世話してもらってた。

ベットに座ったまま、口のなかに大きな注射器みたいなもので水を入れながら、汚れた水は吸引しながら、歯磨きもしてもらってた。(そのころはまだえんげの危険があり、水を飲むのは禁止されてたから、口に水が入るこの時間が好きだった。)

5~6人のナースさん達で寝たまま入れるお風呂にも入れてくれてた。(入院中、浴槽に入れたのは、この時だけだったなぁ。)

それと、リクライニングできる大きな車椅子にナースさん達5人位で私のこの大きな体を動かして乗せてくれていた。

ナースさん達が大変な思いをして、リクライニング車椅子に乗せてくれても、私は車椅子に乗っているのが辛くて、10分もしないうちに「お部屋に帰りたい!」と泣き叫んでいた。

だから、ナースさんの中には、私を車椅子に乗せるのに反対している人もいた。
脳外科ナースのHさんが、そのナースさんを説得してくれてたのも、私は耳で聞こえていた。

脳外科ナースのHさん、あの時は、諦めないでくれてありがとうございました薔薇


結構意識も良くなってきた頃、高校時代の友人Mちゃんや、会社の先輩EさんとUさんも病院に見舞いに来てくれた。

その頃には、大きなリクライニング車椅子ではなく、普通車椅子に、ナースさん2人位の介助で乗せてもらってた。

それでも私は、まだ体力がなくて車椅子にずっと座っていられなかった。
座っていると、辛くてすぐにベットに戻りたくなった。

それでは、リハビリ室に行くことはできなかった為、なるべく座っていることに慣れるようにと、ある時間になると患者さんみんな車椅子に乗せられて、ロビーのテレビの前に座るというリハビリのような時間があった。

私は、その時間がツラかった。そのことを
Mちゃんに話すと、Mちゃんが、その時間に来てくれて、私がつらくないようにと話しかけながら、車椅子を押してくれた。(その頃24時間点滴してたから点滴ポンプ台も一緒だったので、そうとう重かったと思う。)
私がリハビリ室に行けるようになったのは、彼女のお陰である。

Mちゃん、あの時は本当にありがとうございましたWハート薔薇



結局、クリスマスもこの脳外科の病棟にいて、音楽会を聞ける時がきたおんぷ

あの脳外科の男性ナースのMさんは、チェロをひいて音楽会に出ていたえ゛!

しかし、私は、途中で足が痛くて辛くなり、部屋に戻った涙

そんな風に入院生活を過ごし、ようやくナースさん達とも少しお話し出来るようになってきたが、リハビリの為にリハビリに定評のある総合病院のT病院に移ることになった。

そのT病院で、2ヶ月リハビリしてから、また、K病院の脳外科に戻り、その後、婦人科に戻り、子宮摘出手術を受けた。

手術の後、腹水に転移していたことがわかり、また抗癌剤6クールを受けることになった。

私は、リハビリが沢山できるようにと、時々T病院に移らせてもらいたいとお願いし、二つの病院を行ったり来たりしながら、抗癌剤の治療をしてもらった。

その頃のK病院の婦人科病棟では、抗癌剤がとても辛かった。
でも、母が毎日、見舞いに来てくれてた(洗濯したパジャマや、私が食べれそうな物を持ってきてくれた。)し、婦人科のナースさん全員がとても優しかった。

特に、看護助手のTさんは、仕事の合間に、ちょくちょく私のところに来てくれていて、Tさんのオウチにあるポストカードを大きくカラーコピーして持ってきてくれて、私の病室にかざってくれたりした。





そして、Tさんは、行ける範囲で色んな所に連れて行ってくれた。

生まれた赤ちゃんが見える所とか、病院の中庭とか、従業員が通る通路とか、ずっと入院している私にとっては、大冒険だったキャハハ

治療は辛かったけど、みんなに優しくされてなんだか幸せWハートだった。

治療が終わり、最後にT病院に転院する日にナースさん達が寄せ書きしてくれた色紙をくれた。







そして、T病院。
後で考えてみれば、何度も入院を受け入れてもらい、とてもありがたかったと思う。


T病院のリハビリ室はとても大きくて、患者さんも沢山いた。

リハビリ室にいる患者さんのほとんどがご高齢の方々で、39歳の自分がその中にいることが情けなく思ったりした。


T病院で初めてSTのリハビリを受けることになった。私には、STが一番辛く感じた。
自分の厳しい現実を私はまだちゃんとわかっていないと、言われた。
後で考えるとその通りだったんだけど、その時はそんな夢も希望もないようなこと言わなくてもいいじゃんぼーって思った。

会社の先輩方が、T病院にも見舞いに来てくれてて、辛いと泣いたことううっ...もあった。そして、Uさんのとんでもなく優しいお言葉にも涙したううっ...

Uさん、Eさん、あの時はすみません。
ありがとうございましたWハートWハート薔薇薔薇

そして、高校時代の友人Mちゃんも、T病院にも見舞いに来てくれてて、美味しい手作りの料理を持ってきてくれた。

Mちゃん、あの時も本当にありがとうございましたWハート薔薇


リハビリは辛かったりしたけれど、みんなの温かい優しさに励まされたお陰で、なんとか過ごせたんだと思う。

母は、私の見舞いに来ながら、散らかった
家を片付けて、工事の手配をしてくれた。


退院前、週末介護タクシーで家に帰ってみたり、
T病院のPTとOTの先生がウチまで来てくれたりして、家のバリアフリー工事が終わり、ようやく家に帰ることが出来たのだ!!



お世話になった皆さん、本当にありがとうございましたWハートWハートWハートWハートWハート薔薇薔薇薔薇薔薇薔薇




そして、この長いブログを最後まで読んでくださった方、ありがとうございました薔薇