その夜寝る前に、キスしたことばかり考えてしまうので、そこから頭を切り替えるために、話したことを考えてみた。

淳は、何が言いたかったんだろう。私が言ったことは正しかったのかな。

私は、今までものすごくのほほんとしていた。誰かのためになるかなんて、したことがなかった。でも淳は、ずっとそうしてきたのかもしれない。

できるだろうか。

でも、そういうのはタイミングだ。そういう機会にあったら、できることをしよう。今決断しても、すべきことなんて何もない。何せ準備の仕様のないことでしかないのだから。

そうだ、何もない。

淳がした、見ないという決断も、今はする必要はない。少なくとも私はしない。

そうでも、淳は私を怒ったりしない。私たちは一緒にいるけど同じじゃない。大丈夫、大丈夫。

自分に言い聞かせて、私は目を閉じた。

淳が一瞬周りを確認してから、私に抱きしめていい、ときくと、答えを待たずに私を抱き寄せた。こんな風にするのもそんなにないし、私のほうからノーリアクションだったのにしてきたのは、はじめてかもしれない。

「見えてもさ、何にもできないじゃん。そういうのって、いやじゃない?」

あれ、と思った。私は、何かいやなものを見るからいやだというほうのことだと思って、私のほうからかかわることは、考えていなかった。少し考えてみる。このことは頭の右の上のほうで考えているから、そのあたりを見るように意識する。頭と目とのどがつながる。文章化が完了し、声が出る。

「私は、もともと何かするような力じゃないから。基本的に景色が見えるだけだし、誰かに何か頼まれたりもしない。だから、ただ見るだけ。不便もないし、きれいなものが見えたらうれしいなって。それだけ」

淳は、じっと聞いていて、深呼吸して、それから私を抱く腕に力を足した。

「そうか」

ちょっと痛いな、と後頭部の一番後ろの表面あたりで淳の体の感触を感じながら思った。でもなにか考えているみたいだから、我慢した。コート越しの腕がもどかしかったが、手が届く限りの場所に触ってみた。私も手を挙げた状態で抱きついていたらもっと背中をなでて上げられるのに。

淳は人が見えるし、子どもの頃から死んでいる人になにか頼まれることがあったというのは聞いている。また何か頼まれたのだろうか?

「香子は、自分が見えるんだから、何かしなくちゃって思ったこと、ない?」

後頭部で痛いと思うことはそのまま、左のこめかみの辺りであれ、と思った。どうだろう。あっただろうか。でも、多分、淳は今、否定がほしいのだろう。

「ないねえ。だって、見えるのなんて、たまたま性質というか、性能の問題じゃん。やらなきゃって、仕事じゃないもん。義務じゃないもん」

わざと軽く言ってみる。

淳は、腕を解いて、私の顔を見た。

「そっか」

「そうだよ」

なにか、わかったのかな。そうだといいな。

「キスしていい?」

頭の全部が固まる。

「や、それは中学生としてどうかと思うんだけれど」

「まあそういう話をしてたけれど、だめ?」

頭の中を言葉になっていないイメージが駆け巡る。いいのか、いけないのか、いいのか、いけないのか、あらゆる理由が私の頭の全域で全面的に戦っている。でも、いいわるいを超えた理由でどこかが結論を出して、言った。

「・・・今回だけだよ」

「うん」

ああ、目をつぶったほうがいいんだよね、いいんだよね。

何とか目をつぶる。まぶたが眼球に触って、冷たい。

唇に唇が触れる。でも淳の頬骨に私の鼻が当たった。

「あた・・・」

淳も痛かったようだ。私も鼻をなでる。でも、全身の感覚はほかのところの事ばかりを感じている。触れていた面はものすごく小さかったのに、顔面で、こめかみで、首の裏で、肩の動脈で、心臓で、おなかで、ひざの裏で、全身でどきどきする。どきどきしていることをごまかしたくて、鼻が痛かったふりをする。

「やっぱりちょっと早かったか」

淳がごまかしてみている。

「結構難しいね」

私も乗った。淳の腕はまだ私の背中にある。私は腕を挙げて、私からも抱きついてみた。

「研究しておこう」

淳はふざけたように重々しく言った。

「実験はしないように」

私も受けて、重々しく言ってみた。淳が腕を解き、私も離れた。

「帰ろう」

「うん」

次の日は一緒に帰れる日だった。いつもどおり、淳が図書室に迎えに来てくれる。いつもどおり教室で淳がシャツを代える。淳の今の席は、あの男の子を追いかけるために変えてもらった一番前の一番廊下に近い席だ。

私は教室の前のドアの向こうから声をかける。

「淳」

ドア越しだけれど一番近いのだから聞こえる。ほかの教室には誰もいないようだ。

「何?」

淳の声も、ドア越しでも聞こえる。

「あの日さ」

走っていった男の子を追いかけて、淳が階段を登っていったことまでは知っている。後で先生にしかられていた。

「いつ?」

「淳が授業サボった日」

「やな言い方するなあ、そうだけど」

「追いかけていったじゃない」

飛び降りるところをみちゃったの?だから、もう見るのをやめるの?

聞いてはいけないと思って寸止めする。

「いやあ、屋上いけなかったんだよね、鍵かかってて」

「え、そうなの?」

あ、嘘かな、と思った。すぐじゃあ何で帰ってこなかったの?

「まあしゃあないよな」

「そうだねえ」

「おまたせ!」

声とともにドアが開く。そのまま階段を下りて外に出る。中庭を通るときにみたら、コンクリートをはがされた旧体育館があった位置は、もう砂利が敷かれて駐車場になっていた。

「体育館、こうやって見ると、広いねえ」

私には、取り壊されたばかりの体育館が見えていた。建てられたときにその横に並んでいたつつじも、取り壊しのときに正門の近くに移された桜も見えていた。

「あ、いや、ほら敷地的にも」

また淳に対してはガードが甘い。私にしか見えていないのだから、気をつけなくては。

「香子はさ」

「ん?」

「この先も、昔のもの、見るのかな」

「・・・考えたことなかった。見えるんだから見ると思うよ。というか、そういうのって自分では選べないものじゃない?現実のものと同じだよ」

「見るの、やめたほうがいいんじゃないかな」

私は、できるだけ穏やかに聞こえるように答えた。怒っているわけじゃないとわかってもらえるように。

「どうしてそんなの決めなくちゃいけないの?見えるものは見える、見えるんだからやめるも何もないんじゃないかな」

「いや、見ないようにするというか、無視するというか」

「・・・淳、無視するっていってたよね、そういえば。見えてること自体は否定できてないじゃん。まあ、それは別にいいと思うんだけれど、私はそれを決める気はないもん。見えるものは見えるでいい。きれいなのだったり楽しいのだったら楽しめばいい。それは、今のものでも、昔のものでも一緒だよ」

「・・・そういうの見えるので、いやなことってなかった?」

ちょっと考える。いやなこと…空襲のあとの焼け野原が見えたことがあるとかぐらいだろうか。いいたいことがかみ合っていない気もするが、そのまま話す。

「なんで?見えるのは見えるのだもん、いやもなにもないよ。まあ、ほかの人に言っちゃいけないのはわかってるから。淳に対してはちょっと甘くなってるんだけどね」