その女子の格好を挙げて名前を加藤に聞くとあっさりわかった。川島香子。中学1年から転校してきた。成績がよくて駅前の進学塾に通っている。部活は家庭科部で、去年もそうだが図書委員。

そういえば、今年の図書委員はうちのクラスは両方とも女だったな。一方は同小の山下だったからそうじゃないほうが川島か。

ここまで言われてはじめて淳の思い出した情報はそれくらいだった。

加藤は去年も川島と同じクラスで、転校してきた女子だったからチェックしていたらしい。加藤は人の顔の覚えがよくて、他校の陸上部員を結構覚えているから、記録会ごとに旧交を温めあったりしている。その特技を女子にも活かしているのだ。

何でそんなことを聞く、というもっともな加藤の質問に対し、今日は部活にちょっと遅れるからとだけいいおいて、淳は図書館に向かった。確か図書委員は本好きが多いから、当番でなくても図書室か控え室に通っているやつが多いはずだ。

香子はその時、図書館でカウンター業務についていた。粛々と差し出された本の貸し出し手続きをする。そしてカウンターが空くと同時に自分の本を読む。今日の本は各国のいろいろなケーキの焼き方だった。

「なあ」

そう声をかけられて、香子は顔を上げた。

校則どおりの白いシャツ、中に白の学校指定Tシャツ、小脇に学ランとスポーツバッグ、あ、同じクラスの男子。名前までは出てこなかったが、そこまではわかった。

「川島っている?」

香子は思わずかるく眉をひそめた。私の顔を覚えていないのか。それは美人ではないかもしれないが忘れられるのはちょっと屈辱。でもクラス替えの1週間後ならこんなものかな?私も覚えていないんだし。一瞬でそこまで考える。表層は普通の返答をする用意をし、自動的に答えた。

「私です」

「あ、本当。わりい、ちゃんと覚えてなかった。あのさ、今日、渡り廊下見てただろ」

いきなり本題だった。香子は一瞬何を言っているのだといいかけて、あっ、と思った。あの実習棟の渡り廊下のことだ。

「えっと、あの」

とっさに反応できない。

淳は、口ごもる香子を見て、あ、しまった、と思った。

「いや、あそこ、なんか今日引き返してくやつがいて、それを川島が見てたから。もしかして何かしたかな、と」

ここまではなして、また淳は、あ、しまった、と思った。考えてみればこいつが見えていないんだったら俺変なやつじゃん。

香子は、自分が口ごもったために、目の前の男子が口をつぐんでしまったのがわかった。自分が見えていることを認めるべきか否か。一瞬でその男子をざっと見た。めちゃくちゃカッコいいとかではないけれど、結構真面目そう。秘密を話したからといって私に無理やり何かしてくるとかはなさそうだな。思春期の自意識過剰と経験に裏打ちされた防衛本能は、香子にブレーキをかける必要なし、と答えた。

「あのね、そこに壁があるっていうことを見やすいように、壁に印をつけたの」

淳が、は?という顔をする。

「よかったらあとで説明したげる。このあとってすぐ帰っちゃう?」

「いや、部活。陸上。今日は多分6時くらいまで」

「じゃあその後教室きて?」

淳はびくっとした。放課後、女と二人で、教室?

「あ、襲ったりしないから大丈夫」

香子は冗談で紛らわせて、ちょうど来た貸し出しの生徒に対応した。

「また後でね」

有無を言わせない口調で言うと、香子が名前を知らないその男子は、釣り込まれたようにうなずいてそのまま出て行った

何日かが過ぎたが、だれも教室を駆け抜けては行かなかった。

淳は、かえってそれがおかしいなと思ったが、どうしてなのかわからなかった。確認のため1階の1年G組をそれとなく見ていたら、やっぱりかけていく人はいた。

そんな風にしているうちに、掃除当番が回って教室の当番になった。

淳はその日、教室の南側にあるベランダを掃いていた。淳は決められた仕事はきっちりする主義だった。ふと下を見ると、中庭に同じクラスの連中がいた。

「おーい、かっとうー!」

淳は同じ陸上部の加藤大輔を呼んで手を振った。

「おー、さぼるなー、まじめにやれー」

「お前のほうこそ、なんだよその竹箕しか持ってねえって、やる気ねーなー!」

お互いに悪態を付き合って、手を振った。そこへ加藤が同じ班の大垣彩にどつかれたので淳は笑い飛ばして自分の作業に戻ろうとした。そこで、ふと気づいた。同じクラスの女が実習棟があったところをじっと見ている。いや、よく見ると実習棟ではなく渡り廊下だった高さのところだ。何を見ているのかと思って渡り廊下だったところの見えるベランダの端へ行った。その時、突然その渡り廊下があったところを歩いて教室棟のほうへ来るやつが見えた。男だ。正確には建物がないから推測だし、多分建物の窓ガラスのガラスだったところでしか淳には見えないようになっているのだろう、腰から上の部分が歩いているように見えるということだった。だが、そいつは渡り廊下の端の、今淳がいる2年G組の教室の壁に当たるところまで来てふと立ち止まった。そして、怪訝そうな顔をしてもと来た方へ戻っていった。

淳は、あ、ああいう風にこの教室だれも来ないのか、なんでだろう、と思った。そして、その宙を見ていた女を見た。すると、その女は、渡り廊下を歩いていた男を目で追っているように見えた。

そして男はふっと消えた。多分そこからが昔の実習棟なのだろう。もう一度淳が女を見ると、女はよしよしとうなずくようにして竹箒で中庭を掃いていた。ひざを隠すくらいの少し長めのスカート、肩までのストレートの黒髪、黒の靴下。

あいつが何か知っているのか?

淳はその女子の名前をまず知らなかった。

大体クラスの面子がそろってきたとき、最後のほうになってから淳は教室に来た。淳は本当にこの教室に入るのがいやだった。

京町中学校の教室棟は3階建てで、各階に10個の教室がある。そして、1階は1年、2階は2年、3階は3年が教室として使うことになっていた。つまりは1年G組の上は2年G組と3年G組になる。このG組の縦一列は教室棟の端にある。教室棟の隣には以前は実習棟があり、各階で渡り廊下で教室棟とつながっていて、音楽室や理科室があった。しかし、実習棟は15年ほど前に火事で半焼した後に取り壊されて、今はもうない。実習の類はA組の奥にある特別教室や別棟の図書棟を使って行われている。そして、各学年のG組の教室だけが、かつての廊下の幅の分だけ教室が横に幅広くなっていた。

だが、淳にとってはもうない校舎でもないものとして扱うことができなかった。

生徒が駆け込んでくるのだ。実習棟は30年以上建っていたというからその間に何かの事故や病気でなくなる生徒も当然いただろう。そしてそういう生徒がたまに学校に来る。すると、もう向こうに実習棟がないことを知らないから、今はもうその向こうには何もない廊下の突き当たりの壁の向こうへ走っていく。あるいは向こうから駆け込んでくる。淳は1年のときはG組とは違うクラスだったし休み時間に遊びに行ったときぐらいしか見なかったからいいが、授業中など油断していると結構驚くだろう。もちろん彼や彼女はただ廊下を行き来しているだけだというつもりだろうし、害があるわけではない。でもちょっとやめてほしい。

1階のときはまだ心構えのしようがあっただろう。非常口代わりに外に通じるドアがあるから、生徒が出入りしていてもおかしくない。でも2階では、そうもいかない。

勘弁してほしいなあ、と思いながら、淳は自分の机に向かう。残っている空き席が少ないから見当がつけやすい。よりにもよって一番後ろの列だ。

机にカバンを音がするほど投げ出して椅子に座る。新しいクラスの面子を見ると、結構知った顔があった。半分は同じ小学校からの持ち上がりだから見たことがあってもおかしくないし、淳はなんだかんだと顔が広いほうではあるので新しいクラスメイトについて気後れすることは心配していなかった。

やがて新しい担任が入ってきた。わかりやすい授業をするので評判のいい、そのため生徒に人気のある数学教師が今年の担任だった。この点は幸運だと思う。クラスの雰囲気は担任のよしあしで決まるのだから。お決まりの簡単な自己紹介があり、クラス委員決めがあり、掃除の班分けが決まり、給食当番が決まる。淳はためらいなく体育委員になり、中庭からのローテーションの掃除当番になり、来月の2週目に給食当番をすることになった。

そうして午前中が終わり、今日はこれで終了ということになった。淳はやれやれと思いながら陸上部の練習に行くため立ち上がった。そしてふと気づいた。

だれも通らなかったな、と。