祀る、祭る。祀ってしまったら気づけない。崇め奉ってしまったらみえなくなる。どんな関係性の中でも祀ってしまうことでみえなくなるものがあって。関係性を明らかに観る。こんな当たり前のことが「崇めることで、祀ることで」できなくなる。
だから「ありがとう・感謝教信者やキラキラスピ系」にはそれがみえないでいて。その様がわたしは不自然にみえて気色わるかったんだ。言ってることとやってることが違うから。
そして「受け売りの言葉、受け売りの概念を捨て自分軸を見いだし活性化する。」この当たり前のことをできなくさせていたのが「関係性を崇め奉ってしまったという行動」だったんだなぁとも。
カウアクのWS体験で地獄=地国が腑に落とせたのでやっとこの辺りが言語化できた。超すっきり( ̄∀ ̄)
関係性が観えないっていうより【観ようとしなくなる】とも言えるか。そんな風にみちゃいけない!みたいな抵抗がでるんだろね。タブーをタブーとしておくノリもコレだよなぁ、と。
で、この手のノリが自分と地国(地獄)との関係性・繋がりを分断したのよね。すごいよなー。自分とカミとの関係性・繋がりも分断したのよね。
あの世にもこの世にも「禁忌」なんてないのだけど「自分の中に禁忌」を設けてるヒトには禁忌は在る。
逆に言えば禁忌すら存在させることができるのが自分の中のカミの力ってわけで。どれだけ自分(自分自神)がすごいのか、をとことん無視させるなら自分以外の誰かや何かを崇め奉らせればいいだけ。親はあんたよりすごい!先生や博士はあんたよりすごい!お医者さんはあんたよりすごい!帝はあんたよりすごい!宇宙はあんたよりすごい!
わたしもNeoヤオヨロズノカミノクニの女王だしわたしは宇宙そのものでもあるんだけど?わたしよりすごい在り方なんて無いとおもえてるし、わたしより劣ってる在り方なんてのも無いとおもえてる。
何もかもがすごいってだけで。
で、それが当たり前ってだけで。
優劣という遊びを堪能できる次元に留まり続けると遊びな遊びじゃなくなっちゃうってだけで。
面白くなくなったなら、飽き飽きしてることに気づいたなら、そんな自分を認めて許すことで関係性を明らかに観る方向に進路が進むんだろなーと。