昔、「自分はこんなにできるのに、誰も評価しない!」「なぜか怒られてばっかり!」といったことで怒っている人がいました。


 そのかたは30歳手前くらいの若い女性だったのですが、自分がメインで参加していたプロジェクトから外され、自分の代わりにプロジェクトのメンバーに新入社員の女性が加わるそうで、とてもショックを受け、怒っておられたのでした。


 そのかたは

「世の中、結局は若い女のほうがいいんですよ!」

と大変腹を立てて言い、わたしは

「〇〇さんだって若いじゃん」と言いました。


 すると

「じゃあ、若くっても、仕事を覚えてこなせるようになった女はいらないんじゃないんですか?!」

と言うのでした。

 
 わたしはそれを聞いて、モヤモヤしていました。
 なぜなら、かなり年上の女性でも、ずっと仕事の依頼を受けているような先輩も少なくないのにな、と思ったからです。その違いは何だろう?と思いました。


 当時のこの会話を今日ふと久々に思い出し、
「ああ、そうか。才能を自覚したら、‘’次に自覚したらいいこと‘’のある人だったんだな」と思ったので、お伝えしようと思いました。


 「次に自覚したら望ましいこと」とは、
「自分のこの才能を使って、他者や会社、社会に何が貢献できるかな?」という「優しさ」です。ただし、この優しさとは「自分に対して先に優しくする」ということで初めて生まれるものです。他者に対して優しくすることを考えることよりも先に、「正当な自己評価」をしなければならないということです。


 一緒に仕事をしていた時、彼女は頭の回転が早く、色々な優れた持ち前があるすばらしいかたなのですが、上の人に注意を受けると機嫌(きげん)が悪くなり、

「ほらね。やっぱり。
日本は閉鎖的でイヤですね」

といったことを言うのです。わたしは当時彼女の言っている意味がさっぱりわからなかったのですが、今思うと彼女に必要だったのは、誰かが彼女の頭の良さや才能、長所といった特徴を認めて、本物の自尊心を持たせてあげることだったのではないかなと思います。


 たとえば親御さんや上司のような目上の人が、ノブレス・オブリージュのようなことを教えてあげていたら、あのかたは思うように得られていない「評価」というものに注目して不満を(つの)らせるのではなく、自分らしく落ち着いて行動できるようになっただろうにな、と思うのです。


 もしもそういった人が自分のまわりにいないのであれば、自分で自分を認めることです。


 他者をバカにして優越感に浸る方向に自分を持って行くのではありません。その方向では傷ついた自分の心が癒えることはないからです。ですので、そちらの方向ではなく、(まこと)の愛をもって、自分に「才能」という事実をしっかりと認識させてあげ、その上で「他者との健全な調和」の方向に誘導してあげる、ということなのです。


 それが「自分の活かしかた」であり、今回の人生の使命を生きるということにつながっていくのです。


 ですので自分や他者を責めたり、自己卑下したり、自分の人生において得られないものや失ったものにフォーカスを当てて怒ったり泣いたりしてばかりいては、正当な自己評価もできず、「他者との健全な調和」にはたどりつく可能性は低くなると言わざるを得ないのです。


 これが「才能ある子ども」であればなおのことです。

 
 わたし達大人が、愛をもって誘導してあげるとよいと思います。そうでなければ、子どもは自分の才能を自覚しながらも、突出していることによって(ねた)まれ正当な評価を受けなかったり、他者に嫌われたりした場合に、どうしていいのかわからず、
自分の力をセーブしたり、自分や他者を嫌いになったりしてしまいかねません。


 自分の外部に向かってエネルギーを放出するような人の場合で、頭がよかったり才能があったりするのに犯罪を犯してしまうような人々がたまにいるのですが、そういった人々にはこういった過去がある場合があるのです。

 大人になってからでも自分のことを認めることで才能は活かすことができるようになるとは言え、苦しい時代はできるだけ短いほうがいいでしょう。


 もちろん、自分が持って生まれた才能という今回の人生の「設定」を、どのように使って生きても、各人の自由です。さきほど「ノブレス・オブリージュ」と言いましたが、そもそも義務などというものはありません。あるのは「自分がどのように生きていきたいのか」という美学であり、「どのように生きていたら自分らしい在りかたなのか」という内なる自分との一致なのです。


 内なる自分と一致して自分らしく生きていたとしても、今後、(ねた)みといったものが完全にゼロになるかは不明です。「(つぶ)してやろう」なんて悪意を他者から感じることもあるかもしれません。しかし、だとしても何も問題はないのです。「いまこの瞬間に、自分らしく在る」という選択は、外部環境には一切関係がないからです。それは自分の精神の修養なのです。そして「本当の自分らしさ」とは、決して(つぶ)されることはありません。才能の芽が他者につまれるということは、ありえないのです。


 ここでジェフ・べゾス氏の記事を皆さまにご紹介したいと思います。人はみんな、誰でも必ず何かしらの才能や長所を持っています。どうぞご自分の生きかたについて、内なる自分と向き合うきっかけにしていただけたらと思います。


 『ジェフ・ベゾスが祖母に放った「残酷すぎる一言」』
(→こちら


 なお、この記事を書いてくださった記者のかた並びに東洋経済オンラインの皆さまにはこの場をお借りしてお礼を申し上げます。


 ではまた・・・。