わたしは以前、世の中に必ず(?)おられる「じーっと見てくる人」が、イヤでイヤでたまりませんでした。
「なんで見てるの⁉ すっごく失礼‼」と思っていました。有名人でもない、ごく普通の一般人なのに・・・。わたしだけでなく、こういったお悩みを持つかたはたまにおられるのです。
「人が見ていてイヤだと思った」という経験がないとか、そもそも他者のことをあまり気にしていない人に相談すると、
「気のせいじゃない?」とか「あなたが見ているから見られてるんでしょう」と言われたりします。そういうことも確かにあります。これについてはあとで述べます。しかし世間には「他者をじーっと見る」ということに対して障壁が低い人たちがいて、何故だかそういう人たちを引き寄せてしまうということがあるのです。
スカスカにすいている電車の中でぼーっと座っていて、はっと気が付くと、隣の列の長椅子に腰かけている女性が、わたしをまっすぐ見ている、なんてこともありました。どう確認しても他に乗車しているお客さんはいませんし、つり革広告を見ているのでも、景色を見ているのでもないのです。しかももう笑ってしまうほどのガン見っぷりで、わたしのそういった確認作業の間もずっと、わたしに対して体ごとこちらに向けて座っておられるのです。つまりそのかたは斜めに座席に腰かけていて、明らかに不自然なのです。
こういった謎の経験はたくさんありました。その度に怒り、傷つき、ますます人間嫌いになっていきました。自分がやらないことですので、そういったことを平然としてくる他者を理解できなかったのです。自己否定感も強かったために「いくらわたしが奇妙な顔だからって失礼過ぎるだろ!一体どうしたらいいんだろう…!」と悩み、本当につらい日々で、自責と他責で二重に苦しんでいました。無視して相手にしなくても、さらに「じー!!」っと見続けてくるような人もいますからね(^_^;)
しかし今ではほとんど気にならなくなりました。
ちょっとネガティブ寄りに気になったとしても、
「アホ毛(←乱れてピヨッと飛び出た髪のことです)でも出てたかな?」といった程度です。
どのようにして気にならなくなっていったのかと言うと、色々なステップがあるのですが、今回は二つの項目をご説明します。
◆ 他者の考えは「知らなくてもいい」
ある時を境に、わたしは「じーっと見てくる他者が一体何を考えているのか」について考えることを、一切やめた時期がありました。そのきっかけは「同じことをされていても、まったく腹が立ったりというネガティブな感情がわきあがらない」という人もいて、そういう人たちと自分を比べた時に何が違うのかというと、わたし自身に「見られる」ということに対してネガティブな信念があるからだと気が付いたのです。ですのでわたしの中のネガティブな信念を取ればいいことなのだと思いました。
じーっと見てくる他者に対して「アナタ今見てましたよね⁈ 何で見ていたんですか⁈」と確認する勇気はありませんでした。そういった堂々と失礼なことをしてくるような人たちですもの、「見てなんかいねーよ!自意識過剰だろ!」と逆ギレされそうです(;^_^A
ですのでそもそも関わり合いたくなかったので、「他者の思考について考えても腹が立ったり混乱したりするだけだ。一律、やめよう」と思いました。そもそも何かについて考えるということは簡単に言うと『注目したものが増える』の法則により、考えた対象が増えます。ですので考えるのであればステキで見習いたい人について考えなければなりません。考えて腹が立つ相手のことを考えても解決の糸口が見つかる可能性は低いばかりか、宇宙の法則により、こちらにダメージが残るだけでなく「増える」のです。ですので「考えるの、やーめた」と納得がいきました。
とは言え、失礼な相手に対して感情的なわだかまりが残りました。ですのでネガティブな思いがモヤモヤしており、これをほおっておかずに、丁寧に解消しなければならないと思いました。いつまでも他者へのイライラがくすぶっているのがイヤだったからです。そこで逆に自分が見知らぬ他者を見たとか、見ていたと誤解された時について思い出してみようと考え、ノートに箇条書きにしてみることにしました。
① 公園にある喫茶店でボケーッと窓から空を見ていたら、窓の外にも席があり、気づいたらそこに座っている若い男性と目が合ってにらまれていた
これは不可抗力です。この経験のおかげで「本当に見ていないのに勘違いするということもあるのだな」と知りました。
② 電車の中で前を向いてぼーっとしていたら、前や隣でスマホを見ている人に「見ないでよ!」と言わんばかりににらまれた
これは、ぶっちゃけ、のぞき込んだり見たりなどしていません。わたしは首の骨も良くないため、うつむく訳にはいきませんので、もう前を向いたまま目を閉じることにしています。
③ 前から来る人に対して見覚えがある
これはめったにないことですが、
「あれっ 誰だっけ?知り合いだったかな?!」と慌て(あわて)ている時に、もしかしたら見ているのではないかと思いました。これを思い出したおかげで、「例え知り合いでも慌てることはないよな。用があるならあちらから話かけてくるはず。だったら見なくてもいいか」と、いっそう他者を見なくてすむことに納得がいき、気持ちが楽になって嬉しくなったことを覚えています。
このように考えたり、思い出したりして、一つずつ楽になっていきました。人様に言うと細かい話ではあるのですが、ほんの小さな思いを見逃さずにひとつひとつ対処していきますと、ネガティブな信念やネガティブな思いを手放すことができますので、トラウマのような大きなものだけでなくとも「なんかモヤる」という自分に向き合うことをおすすめしております。
◆ 自分に施した心理治療
あとは自分が行った作業内容についてですが、流れをざっとお話しすると、いつもお伝えしている方法で自分の中のネガティブな信念を取り、「幸福になるための教育」に置き換えたということです。
「自分の中のネガティブな信念」とは、例えば一つに、わたしの中にあった強烈な被害者意識です。これを「自分にとって無理のない考え方」に置き換えていき、同時に『マイ・ワールド』を創っていきました。
今でもたま〜に、まったく見ず知らずの人にじーっと見られることがあります。
相手が何を考えているのかは、他者ですので確認する訳もいかず、そもそも先述のようにそういう人とは関わり合いたくありませんので、一切考えません。相手の思考や気持ちを一切考えたりしません。これは「現実を一切無視」ということを行っても大丈夫なケースなのです。
こちらに思い当たる節がなく、また相手もただじーっと見ているだけという状況なのであれば、相手のことをいくら考えてもわからないままであり、また考えてもますます腹が立ったり傷つくだけなのです。
わたしは大昔、買ったばかりのお洋服のタグを切らずにそのままルンルンでお出かけしていたり、吹き出物がつぶれていたために額から血が流れていることに気が付かずに歩いていたりしたことがあるのですが、そういった時は誰かが教えてくれたり、あとで自分で気が付いたりするので、他者が見ていたことに対しての怒りというよりも自分への恥ずかしさで一杯になります。
そういった時のように、こちらに何か落ち度(?)があったり、あるいは相手に何かご用があれば、相手から話しかけてくるものなのです。
ですので相手が何も話さずに、にらんでいるのでもなく、微笑んでいるのでもなく、ただじーっと見ている時に、かつてのわたしのようにネガティブな気持ちになるのは、さきほどもお伝えしたように、こちらにネガティブな信念があるためなのです。
「見られている」ということについてこちらにネガティブな信念がなければ、イヤな気持ちになったり、腹が立ったり、傷ついたりすることはありません。
世の中には「見られていても全然気にならない」という人がいます。そういった人は自分の感覚や思考で、頭が一杯で、他者がどうしていようが、周辺視野で確認はしているという程度であって、ほぼ気にはなっていないのです。もちろん「いっぱいいっぱい」ということではなく、自分以外の感覚や思考で内側から満ちており、自分以外の外部からの情報が入りこむ余地がないという状態なのです。
これが行き過ぎる例もありますが、その人なりのいい塩梅で現実と噛み合うと、他者との関わりがまた一つ楽になります。
わたしは今、じーっと見られたとしても、何も言って来ないのであれば素通りできるようになりました。起きた出来事に対してニュートラルに反応することができる「ニュートラル・ブラックボックス」化したということです。
「知らない人にじーっと見られた」という出来事(INPUT)に対して「ぼーっとしていて特に何とも思わない」というニュートラルな反応(OUTPUT)をしているということです。これは「反応しない」という状態でもあります。ブラックボックスである自分の思考の中身の中身を、先ほどお伝えしたような流れを自分に施すことにより、自分でこのような状態に改造したのです。
しかし日々できるだけハッピーに生きていたいわたしとしては、起きた出来事に対してもう少しポジティブな意味を持たすようにしています。
具体的に言うと「わたしの羽が見えるのね ♪」と思っています。
以前から言っていますがわたしの背中にはエネルギー体の羽があり、これは生まれてからずっとある感覚なのでどうしようもない真実なのですが、かつて自分以外にもわたしのこの羽が見えた人がいて嬉しかったので、「あ、またわたしの羽が見える人が現れた」「あ、超能力者が見ているのかも!」と脳内でつぶやいて面白い気分になるのです。これが「ポジティブ・ブラックボックス化」です。
「知らない人にじーっと見られた」という出来事(INPUT)に対して「楽しくなった ♪」というポジティブな反応(OUTPUT)をしているということで、ブラックボックスである思考の中身は「わたしの羽が見えている」です。
「羽」というのはわたし独自の事情です。皆さまそれぞれに、「他者に見られる」という出来事(INPUT)に対して、ご自分に合った定義を考えてくっつけて、反応(OUTPUT)を自分にとってポジティブなものに変えてしまえばよいのです。
自分にとって心から納得いくものであったり、また心から嬉しい「定義」、つまりブラックボックスの中身を、自分で考え出します。
こういったことは勿論お手伝いはできるのですが、最後には自分で見つけて自分で採用するかどうか決めなければなりません。何故ならいつもお伝えしていますように、自分にとって何が正解なのか、つまり心から納得がいって嬉しく感じることなのかは本人にしかわからないからです。
ただしこういった定義づけを行う際は、他者を侮辱したり、嘲笑して引き下げるようなものはやめましょうね。それは“仮そめの快”であり、人間としての至高の“快”ではないのです。それに違和感を感じずに生きていく人もいますが、「やはり違う」と気が付いた場合、そういった定義づけは二重のネガティブ信念となり、現実をネガティブに複雑化し、結局はまた取ることになります。他者を下げるのではなくて、自分を上げる方向の定義が良いのです。
いかがでしたでしょうか。今回は、気になる人にとってはつらい例を挙げて、「ネガティブな反応」から「反応しない人」になり、さらには「ポジティブな反応をする人になる」という方法をお伝えしました。
このように文章で書いてご説明すると、どうしても長くなってしまうのですが、今後もこういった例を取り上げて解説していけたらと思っています。
それでは、また・・・。


