今回は、ディズニーのアニメ映画『リトル・マーメイド』を取り上げて、現実を生きるわたし達が陥りがちな親子関係などのパターンについて解説をいたします。
勿論、この映画はそういった趣旨で制作されたものではありません。老若男女を問わず、誰もに愛されるような、素晴らしい、そして美しいお話です。
ですので解説など、本来は野暮なことであるため、
「あ、そういうのはちょっと・・・。
イメージを壊したくないし、単に楽しみたいので・・・。」というかたもおられるのではないかと存じます。
ですので、そういったかたは今回はお読みにならず、親子関係や夫婦問題といった人間関係でお悩みのあるかた等、気になったかただけ御覧になっていただけたらと思います・・・
(;^_^A
それでは、今回のもくじです。
◆ 「後味の悪さ」は大切なシグナル
◆ 逢魔が時
◆ 自分で自分をわかり、認めれば回復していく
◆ コミュ障だって練習次第
それではどうぞ。
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◆ 「後味の悪さ」は大切なシグナル
わたしたちは、「良かれと思って」であっても、悪意があったとしても、知らずに相手の領域に踏み込んで行ってしまう時があります。
親子関係ではなおさらのことです。家族というものは様々な理由により物理的にだけでなく心理的な距離が近くなる上に、人によりバラバラな遠慮と配慮といったラインが、全ての家庭においてではありませんが、主に親に委ねられているからです。それはわたし達の「暗黙の了解」という漠然とした教育システム上、やむを得ないもので、改善の余地が多いにあるものです。
子どもには子どもの、そして親には親の人生が、そしてそれぞれに使命があるのです。子どもが小さいうちはやむを得ない部分があったとしても、次第に、お互いの心の領域を尊重しながら、ポジティブに協力し合っていけるような関係になれれば幸せなことです。
とは言えもちろん「離れる」という選択も有りですし、また事情によっては完全に意思のの疎通が不可能だという場合だってあるでしょう。それは必ずしも不幸だという訳ではありません。
それでは、ネタバレを最低限にしたいのですが、物語の始めのほうを少しだけ説明します。
わたしは実写版のほうはまだ観ておりませんので、アニメ映画についてお話します。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『リトル・マーメイド』の主人公であるアリエルは、人魚のお姫さまです。
アリエルはある日、父である海の王・トリトン王に、大切にしていた物事を禁じられて、破壊されてしまいます。
一応申しておきますと、アリエルの父であるトリトン王は大抵のこと、例えば娘の恋愛自体には理解のある寛容な父親であり、アリエルをとても愛しています。
しかし、「それだけは絶対にダメ!」という厳格な基準があるのです。それはアリエルのためを思ってのことなのです。
ですが大切なものを破壊されたアリエルは、ショックを受けて泣き伏せてしまいます。
娘の大切なものを壊したあとのトリトン王は、
「ちょっとかわいそうなことをしたかな・・・」という表情を見せます。罪悪感を感じ、胸が痛んでいるのです。しかしそのあと、「仕方がないことだった」という様子で行ってしまいます。
ちょっとストーリーを止めて、ここに注目してみましょう。
このような時、この時に感じた自分の胸の痛みを、自分で無視しないで頂きたいのです。
「本当に、ほかに何か、やりようはなかったのだろうか?」と考えてみましょう。こういったことが「自分との誠実な向き合い方」の一例なのです。
映画の始まりのほうで、トリトン王は「自分の教育方針は厳しすぎるのではないだろうか」と葛藤を見せています。世の中には、「そもそも怒ってばかりいること自体、親である自身にとってもストレスなのだ」と気が付かれているかたも大勢おられます。こういった自分自身の葛藤も、ご自分で見逃さないで、向き合って頂きたいと思います。
ここから少しばかり実話をお話しますが、あるお母さまが、息子さんがいつまでも塾の予習・復習をせずにゲームをしてばかりいることに腹を立てて、息子さんの任天堂のゲーム機をたたき壊した、ということがありました。
日常的にそういった言動をとるお母さまだったため、家族内も慣れたもので、ご家族の皆様は、
「またか。どうせお母さんの言うことを聞かなかったんでしょう。ウチのお母さんはああいう人なんだから、言うことを聞いておけばいいんだよ」という対応でした。これは健康的な愛の交流のある家庭においてはありえない状態なのです。
そのお母さまは、たとえどんなに塾代がかかっていようとも、たとえ勉強だけがこの世界で勝ち残り生きていくための手段だと信じて疑っていなかったとしても、息子さんの領域に踏み込んでいます。たとえどんなに自分が正しいとしても、暴力や攻撃・破壊、あるいは強制といった手段では、抜本的には解決しえないのです。
詳しく聞いてみると、お母さまは「後味の悪さ」を感じておられました。しかし「でもさぁ、あいつ(息子さんのこと)、『あ~あ。壊れちゃった』とか言って拾って行っただけで、泣きもしない。全然気にしていないよ。」とおっしゃっていました。
しかし、例えわが子であっても、他者の胸のうちはわからないものです。ましてや健康な心の交流のない親子の場合ですと、親の側は常に、言葉や態度で一方的に自分の主張をしているケースが多いので、受け手である子ども側としては表面的には「ハイハイ。わかってるよ。いつも聞かされているからね」という反応しかできない場合が多いものなのです。ですので親御さんが自分の子どものことをどこまでわかっているのかは疑問です。そして実は、こういった親御さんは、自分のことすらわかっていないのです。
他者のこと(ここでは息子さん)のことを憶測し、当事者不在で決めつけて言い切るのは、自分の罪悪感を吹っ切りたいがための、よくある人間心理の発現です。しかしそのようなことをして逃げても、また同じような出来事を、自ら引き起こしてしまいます。しかも事態は次第に大きくなるのです。これが人生のスパイラル・ダウンというものです。ですので、自分の後味の悪さや、自分の罪悪感は、無視したり、誰かのせいにして見ないようにしようとしたりせずに、向き合ったほうがいいのです。
あの息子さんが、例えば、
「本当は傷ついていた。ひどいよ・・・!」
等と自覚が出てくるのは、だいぶあとになってからのことでしょう。漠然とした苦しみを抱えたまま、一生を終えてしまう場合もあるのです。
親という立場は(勿論ながらすべての親御さんがそうなのではありませんが)、諸理由により、子どもに対して遠慮を無くさせることがあります。
子どもというものは、ネガティブだったり、また自分とは合わないような家庭に生まれてしまったとしても、そこで生きていくしかありませんから、付いていこうとしたり、また反発したり、心の痛みを感じないようにしたりと工夫しながらやっていくしかない、とある意味ネガティブなあきらめを行って、ストレスを感じていることがあるのです。余談になりますがホワイトすぎるような親御さんに対してのストレスもとても苦しいものなのです。
話をトリトン王に戻しますが、この場合、トリトン王としては、たとえ自分の娘が間違っているとしか思えないようなことをしていたとしても、まずは話を聞くべきだったということは、視聴者であるわたし達には難なくわかることだと言えるでしょう。
子どもの言い分を黙って聞いていたとしても、反論する気満々では聞いているうちには入りません。そういった態度はネガティブな気配が伝わり、相手は「聞く気もないくせに」と反発を覚えます。
望ましい態度の一例を仮にお伝えしますと、例えわが子であったとしても、別の人生のテーマを持って生まれてきているのですから、自分のこととは切り離し、虚心坦懐に、あるいはできればほんのちょっぴりだけ面白がって、話を聞くと良いでしょう。目的は、その子のことを、まずありのまま知るためです。そして親として協力できる範囲などを相手や自分に聞いて、親は自分の行動の範囲を決めるのです。
映画『リトル・マーメイド』は、もちろんお話です。しかし、親子関係や心理としては普遍的であり、ごく一般的な、わかりやすいネガティブ・パターンが組み合わさっています。だから物語として成立しやすいのです。
こういった物語や他者の具体談であれば、
「アリエルの話を聞いてあげればいいのに・・・。いくら前例がなく、自分の中のルールに反していたとしても、頭ごなしに否定したり命令したりしないで、話し合ってみればいいのに・・・。」
と客観的に思うことができます。これを「傍目八目」と言います。他人のことは他人事、つまり自分のことではないので、落ち着いて見ることができるのです。しかし、自分に直接関係することとなると、わたし達はとかく同じことをやってしまいがちなのです。
「うるさい!黙れ!親の言うことを聞け!」と言われて育った人は大勢おられます。大切な物を親に破壊された人も少なくありません。そしてそのような言動を取った親側も、自分がされたように自由意思を封じられて育ったケースが多いのです。これがいつもお伝えしている「不幸になるための教育」の世代間連鎖の一例です。
そしてそのように育てられた子側としては、例え今すでに親や祖父母世代という立場になっているとしても、今の時代に生きているのであれば、自分は下の世代に同じことをしないために、そして自分自身の傷やストレスを癒すために、上の世代や社会から受けた「不幸になるための教育」を手放して統合したり、覆して次世代と共に幸福になることが、人生のテーマのうちの一つなのです。(そのための詳しい手順や「なぜそこに生まれたのか」といった概念といったものは、今回は省きます。)
特にストレスやネガティブな感情を感じている時は、人はどうしても視野狭窄に陥りがちになってしまいがちです。ですので、ストレスやネガティブな感情を感じた時は、いったん撤退してみるとか、やりかたを変えてみることが効くことがあるのです。
◆ 逢魔が時
話をアリエルに戻します。
父に一方的に大切なものを壊されてしまい、傷心に泣き崩れているアリエルの元に訪れたものは、一体何だったでしょうか?
ストーリーをご存じないかたもおられるかもしれませんが、海の魔女であるアースラという悪役の使いでした。
これも現実の中でよくあるネガティブな出会いのパターンなのです。
大切な父親にわかってもらえなかっただけでなく、好きなものを破壊されてしまったけれど、どうしても人間になりたいアリエルは、魔女アースラの提案に乗ってしまいます。
気分が落ち込んだアリエルにとっては、まさに「逢魔が時」となったのです。
「逢魔が時」というのは通常夕方の、視界が暗くなる時間帯のことを指し、昔の人の「夕刻は気をつけてね」という教訓です。
しかし例え日中であったとしても、機嫌を悪くしていたり、気分が落ちこんだりすると、思考に制限がかかって視野狭窄に陥ったり、また「怖い」という感覚を無視して「いや、もうこれしかない。味方もいない。他に手はない。行くしかない」と、自分をネガティブダウンさせる方へと突っ込んで行ってしまったりして、「逢魔が時」となる可能性が高まってしまうのです。
◆ 自分で自分をわかり、認めれば回復していく
さて、日頃から親子で、どちらかの一方的な主張や押しつけではなく、よく話し合うという健全な交流の習慣がある場合は、企みのある他者のつけ入る隙がないものです。
これは親子間に限った話ではありません。夫婦間においても同様です。
家族間でよく話し合い、信頼し合っている家族関係であれば、「夫に、あるいは妻、親には内緒で・・・」といったように、やりたいことや気になったことを「隠れてする」ということはやらない可能性が高いのです。
高学歴なのに犯罪グループに入って活動にのめり込んだ、という人々もいますが、こういった人も、もしも親や夫、妻が、その人に対して違うパターンの付き合い方をしていたら、別の人生を歩んでいたかもしれないという事は散見されるものです。そして勿論、学歴は関係ありません。誰かが自然なその子らしさをありのまま見て受け入れてくれたのであれば、無自覚に自分にとってネガティブな選択をしなかったであろうと考えられるケースはたくさんあります。
ともあれ、アリエルのようにまだ親の庇護下にあるという訳ではなく、すでにある程度年齢を重ねたのであれば、親御さん側であっても、子どもさん側でも、いずれのかたの場合であっても行って頂きたいことは同じことです。
ある程度大きくなったのであれば、自分で自分の本心を知り、必要があれば癒し、ネガティブな出来事を統合し、自分で自分を育て直してあげるということを、わたしはおすすめしています。誰一人として自分のことをわかってくれなかったとしても、自分が自分を認め、大切にすることで、精神的回復は可能だからです。
誰にとっても、家庭とは、ほっと安心できる場所であってほしい、とわたしは願っています。まず自分ひとりで自分らしくいられるようになること。そして家庭内にいる家族全員が、自分らしくいられること、つまりリラックスしていられることが望ましいのです。
◆ コミュ障だって練習次第
繰り返しますが、今回、例として取りあげた映画『リトル・マーメイド』は、創作されたお話であり、感想は人それぞれです。今回のブログにおいては、現実を生きるわたし達にもよく見られるありがちなネガティブ・パターンをわかりやすく見ることができるため、取り上げてお話してみました。
今回の話は『自分らしい幸福のための全貌図』における「精神的健康の領域」の人のための「心と向き合う」及び「親子という現実と向き合う」についてお話しました。
最後になりますが、人間関係においてネガティブなパターンに陥っている時というものは、大抵の場合、コミュニケーション不足が原因です。
一般的に、わたし達は、相手が変化したり、理解してくれることを望みがちなのですが、しかし、それが叶うことは確率が低いことです。それよりも自分が変化したり、自分が自分を理解するほうが手っ取り早く、確実でもあるのです。
そして何より、自己改善や自己理解が積み重なると、自分が自分であることに対して自信がついてくるのです。ちょっとわかりにくい表現かもしれませんが、根拠のある漠然とした自信といったものがついてきます。
これを目指しながらですと、自分に対して意識が向いている状態ですので、コミュニケーション力も身についていきます。例えばコミュ障と言われるものは、脳に明らかな病理所見が見られるような場合を除き(こういった器質的疾患については今回は述べません)、通常の場合において、ほとんどすべてが練習不足と言ってもいいものです。例えば失敗を恐れ過ぎている、といった他の心理的要因があるのであり、自分がどうなりたいのかを確認してしっかりと、そして丁寧に向き合うことにより、自分らしい自己表現を十分にできるようになることができるものなのです。
家族というものは、そういった意味においても、いい練習相手になります。じっくりと「自分にできる言い方は何かな?」等、自分に理解を向けながら、できることを見つけて練習していただきたいと思います。自分の心と向き合ったのちに、自分が納得いくコミュニケーションのしかたを探って、今後の自分の人生のために見つけて練習していきましょう。
それでは、また・・・。