これはあくまでわたし個人の見解と思って頂いて大丈夫なのですが、


愛の反対は無関心ではない


とわたしは思っています。


こういったものに対する印象とは自由であり、本当に人それぞれなのですが、
わたしの場合は、愛の反対は「責めること」だと思っています。



 愛の反対を「無関心」だと思うかたの話を伺ってみると、


 ① 「無関心」ということに対してネガティブな過去や定義付けがあったり、(←自責と他責につながる。ネガティブな過去や定義づけを取ると本当の自分が出てくる)

 ② 他者の価値観を学習した前提からの意見であったり、(←他者を責める傾向を持つが、自責し自縄自縛に陥るケースもある)


 ③ もしくは本人も気が付いていない本音が心の奥底にあったりする (←自責と他責につながる)


といったことなのではないかと思っています。



 わたしの場合はそれらとは異なっています。



 これはどのような設定の環境に生まれたか、そして自分という「身体意識」が何をどのようにキャッチするかに依ります。(ちなみに申しますと、この世界の人々は、現実に先んじて自ら自分の内面を平和に変化させることが共通の使命(テーマ)となっています。)


 さて、かつてのわたしように、
「周囲が全員敵であり、他者は攻撃を仕掛けてきて自分を追い詰め、傷つける」という世界の人々の一部にとって、周囲が自分に対して「無関心」であることの定義づけとは、「喜び」です。


 この場合の「無関心」とは、横目で一瞥(いちべつ)してフン、という冷淡な振る舞いで行ってしまうような態度のことではありません。それは「攻撃」です。「無関心」とは、まるでこちらが存在していないかのごとく他者が無関係に周囲を流れ去っていくことです。自分がまるで透明人間にでもなったかのようです。それを「寂しい」と感じますか?もしそうであれば、自分の信念体系にそのように感じさせる「何か」があるということです。それを癒して、固定されたエネルギーを開放して初めて「本来の自然のあなた」が出てきます。一部の人々にとっては、それは喜びです。つまり、「他者からの無関心な態度」に対してネガティブな定義付けがないのです。こういう人々が一定数いるということです。


 一体どうして「無関心」に対してネガティブな定義付けが無いのでしょうか。それは先述のように、他者が敵しかおらず、全員が自分を攻撃してくる環境に今いるから、もしくはかつていたからです。そういったことしか(・・)無い世界にいたら、例えば外部から何らかの攻撃がないだけでも、「これはありがたいことだ」と知っているために、大きな安心を覚えるのです。


 これは日本人である場合はご自分の遺伝子に聞いてみると良いかもしれません。わたし達の住む町に、村に、空に、爆撃機がいないのです。もう永遠に、焼夷弾(しょういだん)が落ちてくることはないのです。そのような中、わたし達のご先祖さまは生き延びてくださいました。それはどの国の人でも同じです。空に、周囲に、自分を追撃(ついげき)する存在がいないこと。これがどんなに尊いものであるか、おわかり頂けるのではないでしょうか。

 
 誰も自分のことを知らない喜び。
誰も攻撃してこない喜び。
何者も責めてくることのない喜び。


 これは無常の感謝と喜びの実感です。かつて苦しかった時期を思い出すと一層平和を尊ぶ気持ちが強まります。



 「愛の反対とは責めることだ」というわたしの見解に話を戻しますが、そういった視点から見ると「無関心に愛を感じる人もいます」ということです。


 なぜなら「無関心」は、相手の存在を否定していないからです。それはまるで、道端でコワい人に会ってしまった時や、学校で、自分とはまったく無関係な別のグループのクラスメイトとすれ違った時のように、すーっと意識をそらす感覚に似ています。


 相手の存在を否定すると攻撃になるのです。それは相手から反動、反撃が返ってくる可能性があります。だからこちらも何もエネルギーをまったく出していないという状態で通り過ぎます。これが今回ここで述べている「無関心」なのです。


 しかも、助けを求めれば、いつだって誰かが助けてくれます。それはこちらの要求が、例えば道に迷ったから教えてほしいとか、本屋さんはどこですかといったような、小さいものだからです。本来、他者同士の助け合いとはそのくらい「ほんのちょっぴり」ずつ、善意のもとに交換されるものなのです。では問題が大きくなった場合はどうすればいいのかと言うと、そのために専門家という職業があるのです。もしもいなければ、自分がなるのです。それが今回の人生の使命なのかもしれません。ただし自分の復讐のためではなく自他への愛の立場からクライアントを導くことのできる専門家になることです。初めはネガティブな動機だったとしても次第に活動の土台を”喜び”に変えていくといいでしょう。


 一度、ご自分にとっての「愛の反対ってなに?」を考えてみるのもいいでしょう。そこからご自分の隠れた本音が見えてくることもあるかもしれません。本心は自灯明の在りかについて教えてくれるものです。自分自身を知っていきましょう。


 ではまた・・・。