本日は龍福寺です!
山口県を中心に西中国から北九州北部にかけて200年に渡って統治した一族![]()
24代弘世以降、尼子氏や毛利氏との戦いに敗れて衰退、滅亡するまでの約200年間、大内氏は山口を本拠として栄華を極めました![]()
大内氏は、朝鮮王朝の求めに応じて倭寇禁圧のための軍勢を派遣するなど、朝鮮王朝や明国と積極的に通交、交易を行いました![]()
これにより得られた莫大な富や、強大な軍事力を背景に、守護として国内の政治的動きで大きな役割を果たしました。
また、山口は、16世紀中頃の史料である宣教師サビエルの書簡によると、「日本で最強の領主(大内義隆)がいる」、「一万人以上の人びとが住み」と紹介されるほどに繁栄していました。![]()
大内氏の勢力図![]()
大内氏の滅亡
大内氏が滅亡した最大の理由は、1551年の「大寧寺の変」で重臣の陶隆房(のちの陶晴賢)が主君である大内義隆に対してクーデター(謀反)を起こし、家中が内紛によって自壊したからです。西国一の栄華を誇った大内家は、この味方の裏切りにより事実上崩壊しました![]()
滅亡の主な原因
- 主従の対立: 当主の義隆は、武力による拡大よりも文化や学問(大内文化)を重んじました。これに対し、武功派の陶隆房ら家臣団は強い不満を持ちました

文治派との確執: 義隆が側近の文治派・相良武任びいきの政治を行ったため、武闘派の武将たちとの溝が深まりました
大寧寺の変(1551年): 陶隆房が挙兵し、義隆を攻めました。義隆は逃亡先の長門国・大寧寺で自刃し、義隆の子も殺害されました
その後の決定打
- 傀儡政権の崩壊と毛利氏の台頭: 陶氏は別の当主(大内義長)を立てて実権を握りましたが、1555年の「防長の戦い(厳島の戦い)」で毛利元就に敗れ、陶晴賢は自刃しました
完全な滅亡(1557年): 追い詰められた最後の当主・大内義長も毛利軍に攻められ、長福寺(現在の功山寺)で自刃し、大内氏は完全に滅亡しました
大内義隆の辞世の句
討つ人も 討たるゝ人も 諸ともに 如露亦如電 応作如是観(うちつひとも たたるるひとも もろともに にょろやくにょでん おうさにょぜかん)
現代語訳:
私を討つ者も、討たれる私も、みな同じだ。人間の命は、草の上の露や、一瞬で消える稲妻のようにはかないものなのだ
私を討つ者も、討たれる私も、みな同じだ。人間の命は、草の上の露や、一瞬で消える稲妻のようにはかないものなのだ
本日の一品「チャーハンみたい」!
どす
どす














