「絆」
今年を一文字で表すならば、こう答えます。

ここ数年の自分は、どこか一人で生きていこうとしてたように思えます。
他人嫌いというわけではないけども、他人に依存するをよしとせず、
微妙な距離を置いて周りと接していたような気がしています。
誰も俺をわかってくれないんじゃないか?
そんな思いが少なからず、ありました。

そんな中、3月11日、あの大地震が発生。
冷静に努めようとしてましたが、今思い返すと、あの時は混乱していました。
仕事そっちのけで、TVやネットから流れてくる情報に衝撃も受けました。
ただ、細かいことは覚えていませんが、自分自身のことより、
より震源に近い地域のことや、親しい友人のこと(東北に限らず)を
心配していたことは覚えています。

少しでも力になれればと、twitterで最新の情報を流すようにしたり、
ケータイの電池の持たせ方を広めてみたり、不安にしてる友人を元気づけたり。
また、自分からある友人達のメーリングリストにメールを出したりしました。
このメールを今見返すと、本当に自分が書いたのか?と思うような内容でした。
他人から距離をおこうとしていた自分が書いたとは、とても思えない内容でした。

今思えば、自分自身心細くて、他人との繋がりを求めてたのではと思います。
「自分自身が他人との繋がりを求めなければ、本当の意味では繋がれない」
と気付いたのはこのときではなく、10月に震災以降のことを振り返った際ですが。
その10月までは、今思うと、震災のことに縛られていたのかな、とも思います。

ボランティアにもたびたび赴きましたし、間接的な支援も何度かやってきました。
ボランティアで出会った方々や経験したことから学んだことももちろん大きいです。
でも、どこか自分そっちのけだったり、日常のそばにいる人に対して、少し疎かだった気がしています(後者に関しては、震災の影響というより、もともとそういう傾向があった気もします)。

そんな中、10/23の誕生日前後にボランティアで東北を訪れる数日前に
観に行ったライブで聞いたMCが転機だったかもしれません。
「そばにいる人を守れなけりゃ、東北の人を守れるわけない」
こんな感じのことを言っていたMCと思います。ハッとしました。
当たり前のことですけど、ちゃんとできているのか俺は?と打ちのめされました。

これがきっかけで、10月23日に31歳の誕生日を迎えるにあたり、
震災のこと、自分自身のことを振り返るだけでなく、
そばにいる人、周りのことも考えることができました。
また、その10月にボランティアで出会った地元の方との会話も、
周りを思いやることの深さを考えさせられました。

そして、その後の11月は、自分のそばにいる人、
周りの人との繋がりを強く感じることができました。
自宅でのカレーパーティや、自分のバンドのライブに、
大勢の友達が来てくれたのは大きな出来事でした。
特にライブに関しては、大きかったですね。

そのバンド「ザ・コスモポリタンズ」も今年に入ってから加入したバンド。
このバンドに参加できたことも、とても大きな出来事でした。
加入直後に地震があり、その後ボランティアにも行くようになって、
バンド活動どころじゃないのでは?とも思ったことも何度かありました。
でも、あのメンバーだからこそ、忙しい中でも練習を頑張れました。

この1年、そのバンド活動を通して、「音楽」への愛・想いも深まっていきました。
貴重な時間と決して安くないチケット代を払ってまで、
観に来てくれる大事な友人たちがいるからこそ、
そのこころに強く響く演奏をしたい、と強く思うようになっていきました。
そして、今年最後となった12.18のライブでは、
その思いが結実したともいえる、素晴らしい演奏もできました。
自分だけの力ではできなかったことです。
バンドに関わる全ての人々に感謝しています。

本当にここまで人と向き合い、繋がり、すなわち「絆」を感じた1年はなかったです。
大事な人の存在、友人の存在、人を想うことの大事さも、痛感させられました。
このことを感じさせてくれたのは、間違いなく「東日本大震災」と「音楽」です。
だからこそ、来年以降も、これらについて考え続け、行動し続けこうと思います。

そして、自分に関わる様々な人との「絆」も大事にして、
これからの人生を歩んでいければいいなと思います。

まずは、2011年の年越しを、今年感じた「絆」を思い返しながら、迎えようと思います。

2011.9.18、AIR JAM 2011、行ってきたでー!!!
やっと、本当にやっと、Hi-STANDARDが観れた!!!
最高に嬉しくて、楽しくて、生涯忘れない一日となった。

Hi-STANDARDのことだけでも十二分な文字数になりそうだが、
まずはHi-STANDARDのひとつ前の出番だった、BRAHMANのことを書きたい。
※それ以外のバンドについても書きたいけど、割愛(後日、末尾に追記)

AIR JAM 2011オフィシャルブックの難波さん、健さんの対談でも明かされていたが、今回の復活にあたり、BRAHMANのTOSHI-LOWがかなりケツを叩いたとのこと。
そんな彼のMCはまさにその話を裏付け、その想いを強烈に突きつけてくる。

「今日を一番楽しみにしてたのは俺たち、BRAHMAN始めます!」(冒頭のMCより)
「いつも、ライブ中に死んだってかまわねぇと思ってやってっけど、
 今日だけは次のバンドが観てぇ」(終盤のMCより)

MCは音楽系Webのレポートにも掲載されてるが、文字だけでは伝わりきらない。
これらの言葉に至るまでに語られたAIR JAM 2000の話、それからの話、震災の話、などの流れだけでなく、やはり彼らのライブが言葉を強くしていると思う。

俺はHi-STANDARDをなるべく近くで観るために、離れた位置から観ていた。
ZEPP TOKYOの一番後ろより遠く離れていたが、その距離を感じさせないパフォーマンス。TOSHI-LOWだけが目立ちがちだが、やはりBRAHMANというバンドの存在感は際立っている。

その圧倒的な演奏があってこそ、MCで語られる言葉の真実性を高め、聞く者の胸に強く訴えかけてくる。被災地への想い、今日という日の重要性、この後に訪れる歓喜、いろんな感情がごちゃまぜになった俺は終盤のMC途中から、後に続けた「霹靂」が終わるまで、大号泣し、ちょっと嗚咽も漏らした。

そんな圧倒的なステージ後、Hi-STANDARDを待つ間は、本当に落ち着かなかった。
スタンド席のウェーブを眺めてるとMCのブライアン・バートンルイスが登場。
ついに始まる!「Hi-STANDARD!!!!」の呼び込みコールにあわせて、大絶叫!!!

メンバーは現れないが、バックには「Hi-STANDARD」のドロップが上がっていく。
俺の胸の高鳴りも呼応して、さらに上がってきたところで、ついに3人が登場!!
もう、この時点で嬉し泣き。ホント、ただただ嬉しくて嬉しくて、めちゃくちゃ笑顔で泣いてた。

1曲目はいきなり「STAY GOLD」!!!
もう軽くパニック状態で、細かいことは覚えてないけど、あの大合唱は一生忘れん。
昔、Ken bandで初めてSTAY GOLDを聴いた時のこととか、今でも不意に思い出すけど、やはりあの3人が放つ「STAY GOLD」は格段に輝いてた!

前半は歓喜のモッシュにさらされながら、「あー、俺、今、ハイスタ観てる!聴いてる!」と時折思っては落涙。でも、中盤の「Dear My Friend」くらいから、単純に楽しくなってきて、終盤にかけて、ひたすら楽しかった。
これがあの3人の周りを元気にしていくパワーなんやと思う。本当に元気もらった!

もちろん、楽しいだけでなく、「Wait For The Sun」「Fighting Fists, Angry Soul」は特に震災に対する思いも伴って、熱く叫んで、会場全体のパワーが凄かったに違いない。

曲間のMCでは、難波さん、健さんも、すごく楽しんでる空気が伝わってきた(声は出してないけど、きっと恒さんも)
また、健さんの「Lovin' You」弾き語りに難波さんが「それが聴きたかったのよぉ」とか、なんとも微笑ましい。
その後の本編ラスト「Can't Help Falling In Love」は本当にハッピーな気分で、気持ちよかった!ホント、この感じを多くの人に、震災で傷ついた人に、早く届いて欲しいと強く思う。

アンコールのStarry Nightも、本当に気持ちよかったなぁ。
ひたすら天を指差して、モッシュしてたなぁ、俺。なんか恥ずかしいくらいに。
終止、最前エリアでモッシュしていた俺だが、アンコールラスト「Brand New Sunset」は少し後ろに下がって、眼鏡かけて、しっかりと3人の勇姿を焼き付けた。
アウトロで健さんだけが弾いてる姿を、難波さんと恒さんが並んで観てる光景がやけに印象的だった。

終演後も、観客と同じように、ハイスタの3人も名残惜しそうにしてたように感じれて、その様子もまた印象的。やはり、観る側だけでなく、もしかしたらそれ以上にあの3人も喜んでたのかなぁ。
ホント、この喜び、幸せな空気が1日でも早く東北に届くことを祈らずにはいられない!

さて、終演後のアリーナは壮絶なモッシュの爪痕が、散見された。
シートがめくれて芝生が露出しているのはやむなしだが(てか、凄すぎ)、ちらかったペットボトルを中心とした大量のゴミにはちょっと残念(他のフェスでも)。
だが、そのゴミを拾いながら帰るお客さんが他のフェスより多かったと思う。
俺も拾ってると周りで続く人がいて、言葉はなくとも、なんか繋がれた気がした。
全員ではないにしても、こういう繋がりが何かを生むきっかけになるんだと思う。

かくして、11年越しの念願が叶った。本当に嬉しい。
俺がライブハウスに足を運ぶようになったのは2000年に入ってから。
俺の記憶が確かなら、もうその頃にはHi-STANDARDの関西でのライブはなかった。
AIR JAM 2000に行くという選択肢もあったが、当時の俺には東京に遠征する覚悟はなかった。

2004年末から2005年春にかけては、復活の兆候も見られた。
ちょうどその時期に、就職して東京へ出ることになってた俺は、
5年越しのハイスタが観れる日も近いなぁ、と楽しみにしてたのを最近思い出した。
ただ、その時はいろいろあったようで、話は流れた。

Hi-STANDARDはもう観れないかも、という状況が深まっていくにつれ、
「観たいと思うバンドはなるべく観に行こう」という姿勢が強くなっていった。
(これは「後悔しないように、やれることやろう」という意識にも繋がる)

皮肉なものだが、あの頃、Hi-STANDARDを観てなかったからこそ、
この2,3年、いろんな幸せな瞬間をライブハウスやフェスで味わうことができた。
なんだか妙な論理かもしれないがが、俺にとってはとてつもなく、大きな存在だったわけだ。

4.26、震災のボランティアに向かう道中、twitterへの「9.18 ハイ・スタンダード AIR JAM。届け!!!」という3人の写真付き投稿を目にした瞬間に涙したとき、やはりどうしようもなく好きなんだなぁと改めて思った。
チケット入手時にあんなに喜んだこともないし、リストバンド交換だけであんなにドキドキしたこともない。

本当に最高の1日だった。でも、それだけで終わらせちゃいけない。
あの場でもらったエネルギーを日々に活かさないと、これからに繋げないと。
油断すると、すぐ怠けてしまう自分だが、昨日を思い出しながら、踏ん張ってこうと思う。

AIR JAM 2011、本当にありがとうございました!!
少しでも早く東北でも開催されることを願ってます!
(そして、できれば来年も関東でやって欲しい。今回観れなかった人たちのためにも)


※冒頭にも書きましたが、他のバンドのことも、時間あれば追記しまーす
(決して、BRAHMANとHi-STANDARDしか観てないわけじゃないw)
ども。こんばんは。
気が向いたので、久々にブログでも。2ヶ月ぶりくらいになりますかね。
相変わらず、慌ただしい毎日なんですが、あれこれと近況でも振り返ろうかと。

【LIVE】
今年から参加してるザ・コスモポリタンズというバンドにて、
7/3(日)に下北沢モナレコード(以下モナレコ)にて、ライブしました(4/9に続き2度目)。
他のメンバーにとっては、モナレコでのライブは相当に思い入れがあったようです。
俺はというと、モナレコのことはよく知りませんでしたが、下北沢でライブする、というのはちょっと感慨深いものがありましたね。

モナレコはテーブルや椅子も並べられ、飲食しながらライブを楽しむ、
という空間になっていて、うちのバンドの雰囲気にあってる良い場所でした。
プロも出演することもあることから、他の出演バンドのレベルも高かったです。
我々なんて、全然ダメなんじゃないか?と思ったんですが、
ブッキング担当の方に気に入ってもらえて、なんと次回のライブが即決!!
9/25(日)。気になる方はスケジュール帳にメモっといてください。

まぁ、個人的には反省点の多いライブでしたね。
あれこれ忙しくて、練習不足だったとはいえ、それも含めて、反省反省。
次は気合い入れて練習して、完全燃焼に少しでも近づきたい所存。

【パーティ】
友達の結婚パーティの幹事やったり、会社同期の結婚パーティ参加したり。
幹事はやっぱり大変やね。あまり書くと愚痴になるので、割愛します。
でも、友達を祝うのは楽しいもんですね。あと、パーティで久々に友達が一同に会するってのが、これまた楽しい。また、みんなと飲みたいなぁ。
あと、俺もいつかは祝われたいもんですねぇ(遠い目)

【被災地】
5/30(月)~6/7(火)まで、災害記録ボランティアに再び参加してきました。
前回は正味3日間と、たいした貢献はできなかったなぁとの思いからの再参加。
今回は宮古市、大船渡市、気仙沼市と広い範囲を撮影してきましたが、
撮影活動以上にマニュアルの整備などに貢献できたのが良かったかなと。

この活動における写真の一部をアルバムにまとめて、以下に公開しています。
https://picasaweb.google.com/HALKiD1023
震災から3ヶ月弱が経った時点ですが、瓦礫が手つかずの地域もまだまだあります。
今、4ヶ月が経とうとしていますが、まだ手つかずの地域もあることでしょう。
まだまだ支援が必要です。本当にまだまだ、これから、なんです。

【インフルエンザ】
ボランティアに行く2週間くらい前にインフルエンザに罹りました。
最初は風邪かと思ってたんですが、3日目くらいに急に熱が上がったので、もしやと思って医者に行ったら、ビンゴ!、でした。。。(うれしくない)
熱は病院から帰って、薬飲む前に1日足らずで下がったものの、なかなか気怠さや悪寒が抜けきらず、結局1週間以上、会社を休むことに。。。
休暇を使い過ぎたので、ボランティアの参加期間を短縮する羽目に。。。
※当初は災害記録の後に、片付けのボランティアにも参加予定でした。。。

【仕事】
最近、猛烈に忙しくなってきました。。。
今月末まで大変な予感。ま、フジロック前には一段落しそうなのが幸い。

【英語】
昇進試験、不合格の要因であるTOEIC、少しだけ点数あがりました。
が、まだ目標には届いてないので、9.11のTOEICで達成するため、頑張ります。
ちなみに昇進試験不合格の通達を課長から言い渡されたのは、3.11のあの地震が起きる1時間ほど前のことだったのを、ふと最近思い出しました。
なんともいえない感じですが、なんだか頑張ろう、と思う自分です。


以上、あれこれ書くと長くなりますねぇ。
それでは、また、気が向く日まで、ごきげんよう。
4/29(金・祝)。災害記録ボランティアでの活動3日目=最終日。
GW初日ということもあり、この日から活動に加わる新メンバーが
多数いる一方で、前後して、活動を終えるメンバーも多い。
そのため、この日は土地勘や撮影地点などの引き継ぎに重点を置いた活動に。

俺は前二日間とは異なるエリアを担当。
大船渡線の竹駒駅周辺や、陸前高田市街から気仙川を挟んだエリアなど。
海岸から離れているエリアなので、そこまで被害はひどくないのかな?と思っていたが、
こんなところまで被害が及ぶのか、と改めて被害の広さを実感することに。


GWが始まり、天気も快晴。
ボランティア増加、野次馬による渋滞も懸念し、この日からは、
8時には拠点出発、15時前後には活動地点を離れるという早めの活動にシフト。

まずは横田町というあたりにあるボランティアセンター(VC)に立ち寄る。
元は空き地だったと思われる場所にプレハブ小屋をたてて、VCになっている。
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この日はGW初日ということもあり、駐車場はいっぱいに。
このあたりは、海岸から10km近く離れており、河原に瓦礫などはみあたらない。
※瓦礫が見え始めるのは海岸から5kmくらいの地点から

続いて、高台にある、高田市役所の仮設庁舎、災害対策本部も見学。
仮設庁舎は数軒のプレハブにて運営。この日は休日だが、関係なしといった様子。
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付近には、仮設の郵便局や地銀支店も設置。こちらは本日お休み。
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災害対策本部(兼安否確認所)は給食センターの建物に設置されていた。
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中には入っていないが、入り口には様々な掲示がされていた。
被災者へのメッセージ、被災者からのメッセージ、ライフライン情報、
そして未だ行方不明となってる親族/知人の安否確認の張り紙まで。

地震によるダメージも少なく、津波の難も逃れたエリアだが、インフラは爪痕が。
各家屋ごとに仮設トイレ、公園には取水場がもうけられているなど、日常にはほど遠い様子。

それでも元気に笑顔で、水を運んでいる子供の姿がやけに印象に残っている。
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ちなみに陸前高田市沿岸周辺は壊滅的のため、
トイレがあるのはこの高台エリアのみだとか。
※たしかに3日間、ここ以外には仮設トイレを見かけなかった

続いて、竹駒駅周辺で撮影。
似たアングルの写真がWikipediaにあったので拝借して並べてみる。
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どちらが震災の前か後か、説明は不要。。。
駅舎はわりと原型をとどめているが、周囲は一変してしまっている。
駅名の看板には振替バスの時刻表が掲示されていた。
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ホームのダメージも大きく、線路も定位置から外れているどころか、
線路下の土壌が流されて浮いてる状態になっている箇所も。
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近くには昭和シェルのガソリンスタンドが営業を再開していた。
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実はこのGS、震災後に再建されたもので、よく見ると、まだ2Fの窓は工事中。

その後は、昼食休憩。
気仙川の支流の広い道ばたで休憩をとったのだが、
脇にある空き地は瓦礫置き場となっていたり、支流にも車が流れ着いていたり。
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また、付近の鉄塔は津波で根元から折れてしまっていた。
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休憩後は橋が完全に流失している地点での撮影。
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橋脚ごとなくなっていて、地図がなければ、どこに橋があったのかわからない。

橋脚や橋の骨組みと思われるものは、100m以上上流に。
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元々は舗装路があったはずの場所も津波で地面ごとえぐられている。
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続いて、気仙成田山、金剛寺という寺社周辺での撮影。
金剛寺があったはずの場所は、石段や倒れた石像がその面影をわずかに残すのみ。
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気仙成田山のふもとには、避難者の方が仮設でこしらえた入浴施設も。
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成田山の階段を登ると、満開の桜が迎えてくれた。
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桜の向こうに瓦礫が広がる光景はなんともいえないが。。

気仙成田山の高台では、テント生活をされてる方もおられた。
この高台は陸前高田市街が見渡せるので、長期的な定点撮影ポイントに。
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瓦礫が広がる奥には一本松も見える。

以下の写真は津波で橋脚を残して流失した気仙大橋と、そのひとつ北にあった橋。
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決して小さくない橋が、橋脚以外は跡形もないのは大きな驚きだった。
なお、主要幹線道路の通る気仙大橋は少し南側に仮設橋が建設中。

下の写真の左あたりが、指定避難所の荒町公民館があった場所だが、跡形もない。
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津波は、写真右奥に見える高台のすぐ下まで押し寄せたそうだ。
津波警報発令後、荒町公民館を拠点に地元の消防団が、足の不自由なご老人を、
この高台まで運ぼうとしていたが、この中央に見える道路の途中で
津波に流されてお亡くなりになられた団員の方もおられたのこと。
その方のお住まいはこの道を登ったところにあり、この日納骨だったとのこと。

また、このあたりの家に残って生活されている方もいらっしゃる。
インフラは全滅状態だそうだが、自衛隊が定期的に配給してくれているそうだ。

前日には、この井戸水でどこからか流れ着いたランドセルを洗うお婆さんの姿も。
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このお婆さんの息子さんが前述のお亡くなりになられたた消防団員だそう。

前日の四十九日に供えられたと思われる献花も、いくつか見られた。
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なお、日記を書きながら、この地域の特集サイトを見つけたのでご紹介。
 ==> http://japanearthquake2011.jp/index.html
あの地に起こったことがまとめられていて、何とも言えない心境になる。


だんだん時間がなくなってきたので、最後は二手に別れることに。
新メンバーの方には気仙川に関わる今泉街道の橋周辺の写真を託し、
もう一人のメンバーと共に竹駒小学校へ。

途中、入る道を間違えたが、ちょうど竹駒あたりを見渡せる高台にて少し撮影。
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竹駒駅周辺もやはり、津波の爪痕が一面にひろがる。

また、途中、延命寺というお寺にも立ち寄る。
石碑が倒れている程度で、たいした被害はなさそうだったが、
お坊さんに伺ったお話が印象に残るので、ご紹介。
延命寺は高台にあるのだが、津波のあと、少し低いあたりに多くの亡骸が流れついた光景を見て、
これが現実なのか?、と精神的にきついほどに心を痛められたとのこと。

その後、竹駒小学校へ。
同行したメンバーが以前に貴重なお話を伺ったという、
用務員さんのお名前を確認するために立ち寄ったのだが、
この学校は避難所や支援物資置き場となっている模様。
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校門のあたりは地滑りなのか、かなり地面が傾いている状態。

校庭も工事中だったりと、高台で津波を逃れたとはいえ、
学校としては、使用できない状態のようだった。

帰り際、気になったことをひとつ。
竹駒駅沿いを通る道路では、電柱/電線の工事中。
午前の時点では電柱が建ってるのみで、電線はかかっていなかったが、
午後になると電線がかかり、工事の迅速さが伺える(左:午前、右:午後)。
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この跡、拠点に戻り、帰京準備。
レンタカー返却時間もあり、ろくにお別れの挨拶もせぬまま、足早に発つことに。

拠点を発った後、しばらくしての交差点で目に飛び込んできた横断幕を思わず撮影。
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こういった横断幕はよく見かけた。自衛隊やボランティアなど、支援活動への御礼の言葉を書かれたものも多く、ボランティアにとっては逆に有り難い存在だった。

そして、再度、車を出した直後、なぜだか涙がとまらなくなった。
ボランティア活動中は一滴の涙も流さなかったのに。
活動中はどこか感情を殺していたのかもしれない、とふと思った。
目に飛び込んでくる、おびただしい光景の数々への防護策として、無意識に。

仙台駅は少し節電してるようだったけど、それでも品川駅より明るかったような。
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被災地は少しでも明るくしてほしいなぁと思った。
少ししか見てないけど仙台駅は日常に戻ってるようで良かった。
レンタカーを返した後は、仙台在住の友人と仙台駅の牛タン屋で夕食。
ゆっくりできなかったけど、会えてよかったし、被災地にお金を落とせてよかった。
急いで食べた後、この日に全線運行再開した東北新幹線の終電にて帰京。

今回、わずか3日間の活動しかできず、撮影した写真の大半も後日送付に。
(写真の整理なども結構大変で思ったより時間がかかってしまった。。)
あまり力になれたようには思えないので、5/30-6/5まで再び参加してくる。
GW中はかなりの人数での活動となって、いろいろと整備されたと聞くが、
GW後は、参加メンバーも不足気味のようなので、力になれればと思う。

また、災害記録ボランティアのことが報道されていたので、ご紹介。
==>http://www.asahi.com/national/update/0514/TKY201105140202.html
最初の写真の方とは3日目に共に活動した方で関西から来られていました。

以上、災害記録ボランティア日記はこれにて終了。
しっかし、めちゃめちゃ長くてすみません。
ゆっくり読んでいただくのでも、一部だけ読んでいただくのでも構いません。
少しでも被災地の様子が伝われば幸いです。

※写真は活動の合間に撮影したものを中心に掲載しています
※無断転載などはご遠慮いただければと思います
震災直後、「陸前高田は壊滅的」、といった報道があり、
「壊滅的ってどうゆうこと?」と率直に思ったことをよく覚えてる。
災害記録ボランティア2日目は陸前高田の中心部での活動となったが、
「壊滅的」という表現を十分すぎるほど痛感することに。
活動2日目、4/28(木)はそんな1日だった。

天気予報は雨だったので、ゆっくり準備。
雨がひどければ午前中は拠点待機だったが、そこまで降っていないので出発。
結果としては、活動中は少しも雨に降られず、ちょっと晴れ間が出るくらい。

2日目は陸前高田の中心部と昨日と同じ小友町で活動することに。
前日とは違い、陸前高田中心部の西側に繋がる国道340号線から活動地点へ。
国道340号線は気仙川沿いを通っていて、のどかな田舎風景がしばらく続く。
野山の緑の中にちょうど見頃の桜も見られ、車からの景色が心地よい。
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しかし、陸前高田市街まで5kmくらいの地点から、徐々に様子が変わってくる。
右手に見える川原や畑に、少しずつ、瓦礫が見え始めてきた。
田畑のど真ん中にぽつんと流れ着いた自動車もあった。
川沿いのこんなところまで、津波が押し寄せたということで、驚きを隠せない。
国道343号線とのT字路を過ぎたあたりからは建物も増えていくのだが、津波の被害が色濃くみられた。
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この日は高田松原で唯一残った松の状況を記録するのが第一の目的。
が、その手前の2地点でも、活動を実施。

まず、市外に入ってすぐでの活動となったが、このあたりは建物の名残がない。
ほとんどが基礎しか残っていない状態で、流されたか、瓦礫として撤去されたか。
自衛隊や現地企業が重機での瓦礫撤去作業も進められていた。
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朽ち果てたバスもまだ、置き去りとなっていた。

もう少し進んだ箇所でも活動。
このあたりも、先ほどの地点と同じく、ほとんど建物の名残がない。
一部は、瓦礫の集積場、津波で流されて破壊された自動車置き場になっていた。
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瓦礫置き場の向こう側には一本松も見える。
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JR大船渡線が通っていたはずだが、ほとんどの線路が津波で地面から外れていた。
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跨線橋の下などは地面がえぐられ、線路というより、どぶ川に見えなくもない。
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跨線橋付近の損傷もひどい。
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跨線橋上は車が通れるようになっていたが、今思うと、強度的に大丈夫だったのか気になるところ。

そして、一本松へ。
もともとは高田松原という東北有数の景勝地で日本百景のひとつ。
しかし、七万本あった松は大津波によって倒され、1本だけが奇跡的に残った。
この件は、報道されており、ご存知の方も多いかと。

高田松原の周囲はキャンプ場やビーチがあったりしたわけだが、
実際に訪れてみると、その名残はほとんど感じられない。

津波で地形が変わってしまい、海が浸食してきている。
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高田松原が広がっていたあたりは、折れた松が広がるのみ。
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地図をみると、本来はこんなに海に覆われているわけではない。
津波や地盤沈下の影響で地形が変わったのだろうか?

そんな中、本当に一本だけ倒れず、見事に残った松。
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周囲の建物や電柱もボロボロになってる中、よくこの1本だけ残ったものだ。
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この建物はユースホステルだったそうだが、見た目では全くわからない。。

ただ、この松の周囲にも海水が迫ってきている。
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先ほどの折れた松が広がってるところまでは陸続きだったのだが。。。
同行したメンバーによると、つい数日前までは、
この海水が入り込まないように土嚢や柵で防護する作業をしていたたそうだ。

高田松原の近くには、野外活動センターという大きな建物があるのだが、、
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このように海に面した壁は、鉄骨が残るだけ。残った鉄骨も曲がってしまってた。

また、このあたりの電柱はこのように根元から折れてしまっている。
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高田松原のあたりは商業施設もそれなりにあったはずなのだが、
そのほとんどが基礎だけを残すのみとなっていた。
海水か雨水かがたまりっぱなしの田畑跡には、大量のかもめが羽を休めていた。
この日はそんな風景を眺めながら、お昼ご飯を食べた。

お昼ご飯の跡は、前日と同じく小友跨線橋へ。
前日に比べると、少しは瓦礫撤去が進んでるように見えなくもないが、
完全に撤去できるまでは、まだまだといったところか。。
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前日は気づかなかったが、跨線橋につながる少し高台の交差点の脇はかなりえぐられている。
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跨線橋近くの高台から撮影。
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手前に少し写ってる家屋は津波で流されて高台に寄りかかった状態。
瓦礫が見渡す限りに散らばっていることがわかる。

この高台の下で、地元のおばあさんにお話を聞くことができた。
このあたりは半島の付け根で、両側に湾があって、今回はその両側から
津波が押し寄せて、先の1枚のあたりでぶつかる形となったそう。
おばあさんは高台にあがることで難を逃れ、その瞬間を見ていたそうだ。
また、チリ地震大津波の際にもこのあたりは津波に被害にあったそうで、
その際にそのおばあさんのお母さんがお亡くなりになっていたとのこと。
昨日の大船渡と同様、なぜここに町が、と思わずにはいられなかった。

次は小友中学校へ。
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グラウンドは瓦礫の集積場となっていた。

津波に打ち抜かれて、体育館の壁が一部失われていた。
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校舎も津波に襲われ、1Fの窓は残っておらず、廊下の天井も大きく損壊。
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時計が止まっている時刻が津波が襲った時刻だろうか?

体育館の中を除くと、卒業式の幕が。震災当日が卒業式だった模様。
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卒業式だったら、震災発生時は帰宅後なのかな?と思いを巡らせたり。

バスケットゴールにも藁がかかっていて、津波の高さが伺える。
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クラブ活動の盛んな学校だったようだ。
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これ以外にも玄関には成績を讃える掲示が多く見られた。
再び、こういった掲示がされるのはいつだろうか?とふと思う。

すぐ近くに小友小学校もあるのだが、こちらは少し高台になっていて、
大きな被害はなかったとのこと。あとをみると少し浸水はしていそうだったが。
新学年も始まっているようで、元気な児童の声が聞こえてきた。

この後、拠点に帰ることになったのだが、陸前高田市街を通ってると、
以前は通れなかった道が通れるようになっていたので、少し視察することに。
自分が訪れた中では、このあたりが最も凄惨な光景だったように思う。
冒頭に述べたように、「壊滅的」という表現を理解したのはこのとき。
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アパートか何かだったと思われるが、4Fまで津波の被害にあっている。
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照明塔以外は殆ど流失しているが、野球場があったところ。
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ちょっと時間をとって、高田高校の写真をおさえておくことに。
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左に見えるのは視聴覚室などの特別棟。オレンジの骨組みは部室棟の跡。
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部室棟の前には部活動の備品やトロフィーなどが並べられていた。

片付けをされていた学校関係者のお話を伺うことができた。
この部室棟は、本来はグラウンドの反対側にあって、
津波で流され、特別棟にぶつかって、止まったそう。
また、武道場にいたっては、流されてどこに行ったかも不明とのこと。
「津波の力はすごいよ」とおっしゃられた言葉にかえす言葉がなかった。。

本校舎の損傷も酷く、3階まで津波が襲ったことがわかる。
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また、右側の建物は本校舎にぶつかり崩れ落ちるような格好となっている。
部室棟と同じく、流されてきたのだと思われる。

この日は四十九日ということもあり、倒れた校門には、御花が備えられていた。
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今まで歩いた場所も、遺体が見つかったりした場所もあったのだろう。
そう思うと、神妙な気持ちになってしまった。

高田市街は少しの活動だったが、震災の爪痕を最も色濃く感じた時間だった。
一部の道はまだ瓦礫が残っているし、他の方のお話ではマンホールも開けっ放しになっていて、歩き回るには危険な状態になっていたとのこと。
自衛隊も瓦礫撤去だけでなく、行方不明者捜索も続行している様子だった。

拠点に戻ってからは、昨日に引き続きデータ整理。
2日目からはスマートフォンでGPSログを記録し、可能な限り、正確な位置を把握。
交差点などで八方向撮影するなど、ある程度、撮影ルールを定めていた。
そのおかげで、正確な撮影位置を割り出しやすくなってよかったのだが、
撮影枚数が飛躍的に増えてしまい、整理に時間がかかってしまうことに。
また、拠点に戻る時間が遅かったり、ミーティングも長くなり、整理しきれず。
次の日も早く拠点を後にすることから、2,3日目の写真は自宅で整理することに。
ま、結果的には自宅でじっくりとGPS情報をつけれたので、良かったかなとも思う。
このように、活動初期だけに、ただ写真を撮るだけではなく、その後の整理/記録をふまえると、やること/考えることが多かった(今ではだいぶ整理されてる模様)

また、2日目の夜は、遠野市街のケーズデンキやドラッグストアにも立ち寄った。
持参したリーダライタがSDHCに対応しておらず、対応品を買うために。。。
行ってみて思ったのが、本当に遠野市外のお店の品揃えは通常になってるなと。
ポケットラジオなども売っていたので、東京よりも品揃えの良い商品群もあったり。

なので、遠野市を拠点とするボランティアに参加される方は
必要以上に物資を持ち込む必要はないかと思われます。
※特に自家用車などで行かれる方は不便しないと思います

あと、お風呂は「踊鹿温泉天の湯」という温泉へ。
古い施設ではあるけど、ちゃんとしたラドン温泉でなかなか気持ちよかった。
ボランティアでの利用者が多くて、だいぶ儲かってるんじゃないかなぁ。
こういった形で地域経済が潤って、まわりまわって、
被災地にお金が届くとよいなぁとも思ったり。

2日目の夜は車中泊に。
GWを前に新規メンバーが増えて、拠点手狭になってきたというのもあるが、
やはり間仕切りがないと、他人のいびきが気になるというのが正直なところ。
いびきを差し引いても、パーソナルな空間というのは非常に大事やなとも実感。
そう考えると、避難所で生活されてる方々のご苦労たるや、、、
壊滅的な光景や、そこから派生するいろんな思考にゆられながら2日目終了。



またもや長くなりました。
やっと2日目まで書けた。これも書くのにまた1時間以上。
あれこれ思い出して、あれこれ書きたくなりつつ、おさえつつ。
あまり推敲はできてないので、また加筆修正するかもしれませんがご容赦を。
読んでいただいた方、貴重な時間をありがとうございます。
少しでも被災地の状況を感じていただけたら、幸いです。
また、見ていて楽しいものでもなく、ストレスになるかもしれません。
溜め込むのもよくないので、コメント欄に吐き出していただければと。

あと3日目のことを書いて、災害記録ボランティアの日記は一旦完了かなと。
ただし、翌週もいわきにボランティアに行ったので、それも別途書く予定。
ご興味&お時間ある方は最後まで、おつきあいいただけると幸いです。